ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

こんなことがあるんですね。

2010-01-31 10:48:05 | 日記
 本当に久しぶりに、びっくりしました。

 突然事務所に宅配業者が現れたのです。といっても毎日のように佐川さんもゆうびんやさん。やまとさんも来てくれるのですが、今日はなんとなく違ったのです。

 荷物が来ています。」
 ありがとうございます。」

 サインをして受け取ると、差出人がNTTコニュニケーションズ。
 ???。

 中を開けてみると、オリンパスのデジタルカメラが入っていたのです。
 それも1230万画素といったすぐれもの。

 ラッキーですね。
 まだ、デジタルカメラを持っていなかったので、欲しかったのですが、どうしようかと思案中だったのです。
 MAP作りもこれから忙しくなるところですから、最高の機器が到着したことになります。

 NTTの懸賞募集に応募していたのを、忘れていました。
 
 今までこんな経験はなかったのですが、素直にうれしいものです。
 誰かが頑張って、情報収集に使いなさいって言ってるようです。

 やったね。

びっくり写真??

2010-01-30 15:44:05 | 日記
 随分と以前の写真があるらしいのです。
 このブログでも、森林鉄道が走っていた頃の写真を紹介しました。寺田正さんの撮影したものです。
 今日の情報は、それ以前の写真のようなのです。森林鉄道がまだ出来ていなくて、木材を奈半利川の流路に流していた際のものだそうで、興味がありますね。

 水量がないと、当然大きな木材は流れないでしょうし、また大量の材を運ぶには長期間かかっていたのでしょう。
 どんな写真なのかきょうみがあります。一度見に行きましょう。

 記録によると長宗我部元親が北川村島地区から何万本もの木材を切り出したとされていますから、そうした情景が想像されることになります。
 山内の殿様も幕府の要請で随分と切り出していますし、木材は土佐藩の貴重な換金資源だったのですから、事は重大であったはずなのです。

 鉄道やトラックで運ぶ事については、想像がつきますが、流すとなると???。

 奈半利川は、急流でさらに蛇行がきつく、ゆっくりといかだを組んでなどということが出来たのかどうか、特に中流域は岩と岩の間を水が流れているようなもので、いかだが流れたのか、どの様に流したのか興味のあるところです。

 江戸時代以前の写真は望むべくもないのですが、想像力が補完してくれるでしょう。
 差配をしていたのは、当然江戸時代では浦奉行ということになります。

 中芸地域の町家衆の成立に関係のあることだけに、面白そうです。

 何枚ぐらいあるものなのか、そういえば聞くのを忘れたなあ。
 まあ、来週のことです。

役割分担

2010-01-30 10:29:21 | Vision East
 MAP制作の仲間に集っていただき、基本的な方向について確認をしました。
 サイズはA2版。ですね。
 奈半利の町の情報が詰まるのです。
 そして、道が続き、川を遡って、ずっと続いてゆく感じがだせればいいですね。
 現在ある登録有形文化財も誰かが建てたのですが、50年以上にわたって残されてきたって事は、それなりの広がりを持ってかかわりのある生活をしてきたことでしょうからね。
 高知県の東のほうとしての情報も集めてみたいですね。

 一人でおみえになった方々も、ガイドと一緒に廻っているような感じが出せれば、成功だと思っています。さらに私達のガイドにしても、年々ベテランになっていますので、若いガイドの方の参考にもなるようなものが出来ると、なおGOODですね。
 さらに、今でも何人ものガイドさんがいて、ご案内をさせていただいているのですが、個人差があります。そうした情報も公開していただく事で、新しくガイドを始める方の参考になることでしょう。

 MAPに盛り込む情報を精査したり、情報を文章化したり、絵を描いたりとけっこう作業があるのです。最終的にレイアウト作業をして、印刷製本することになります。

 もちろん全体をバランスよく調整する必要がありますね。
 さらに、時々は皆で集って情報交換作業をする必要がありますね。
 夢の共有は、いい物を作るための絶対的な条件ですからね。

 情報を提供して業者に制作していただくといった方法もなくはないのですが、やはり自分達でやることで、現場の情報を入れてみたいのです。

 さらに、普通のMAPにあるような情報も入れることで、文化財MAPのみならず地域MAPとして普段使いの資料になることでしょう。
 ま、楽しい作業になるでしょう。

え~~。落語?。

2010-01-28 17:39:42 | 好きなもの
 先日の会議で提案がありました。
 「奈半利で落語を聴きたいがやけんど。」

 ご縁があって、落語家さんが高知へ来ることになっていることから、こちらでも落語会を開かないかなといった提案が在りました。

 もう何年も前、東京末広亭で聞いて以来の「落語」です。
 おみえになるのは二つ目さんだそうですが、ここで聞けるのですから、何となくいい感じで楽しみです。

 ただ場所ですねえ。
 あまり赤字になっても困るし、場所のイメージもあるしね。
 出来れば、私は工場跡地だとか古民家でやりたいね。
 ホテルでやるのが、一番簡単に出来るのでしょう。ステージはあるしPAも完備しているのです。あとで宴会をやるのにも便利です。ただ、それだと私達の会が開催する意味がないように思えるのです。私たちはイベントを開催するのですが、イベント屋さんではありません。何かをするために手段としてイベントをやっているのです。

 私達の会は原則的に、古い民家等の案内を通して、地域のよさを伝えることを目的として組織されていることから、そうした場所での開催が望ましいことと考えています。

 ギャラを捻出するためだけだと、大きな会場でやればいいし、それだと田野町のホールを借りることがベストとなります。安いチケットにもなりますね。
 自分達が楽しむだけだと、古民家で座布団に座る形で開催すると、贅沢な落語の会になりますが、人数の制限があり、チケットが高くなるのです。

 落語等演芸の世界は、田舎ではあまりご縁のない演目だけに興味もありますが、さてねどうしたものか。
 ただ会議としては、「やる。」事を前提にして、いかにやるのかを考えるのですから、楽しみが増してくるのでしょう。時間の経過とともにね。

 1時間のお話で、1000円の木戸銭といったところか。
 二つ目さんですし、一人です。
 田舎で好きな人も少ないから高くなって当たり前とは思いたくないのです。
 

孝行息子です。

2010-01-28 01:00:00 | 高知県東部人物列伝
 北川信従(きたがわ・のぶより)の日がきました。このカテゴリーで以前紹介した北川武平次の次男です。万延元年(1860年)生まれです。父から厳格に育てられたのです。自らの信じるところを思うままに生きた俊英です。
 本当にこの時代、人材が豊富なのです。

 苦学をして明治12年(1879年)陸軍士官学校を受験するも、数学を全くやらずにいたことで、失敗。司法省法律学校を受験して合格。彼の人生が決まったのです。

 和歌山県始審裁判所詰から検事を各地で歴任するのです。
 彼の逸話があります。
 彼が官史になったころのことです。久方ぶりに郷里の北川に帰ったとき、土産に座布団5枚一組を求め木綿の夏衣を着ていたのです。父母は喜んで鮎やうなぎでもてなし、「我が家にも初めて立派な座布団が出来た。」と喜んだそうな。

 検事として大阪・松山・広島を歴任し、さらに台湾総督府検察官から台湾地方法院検察長と台湾で尽力した後、内地に帰り大審院から長崎地方裁判所検事正を経て、長崎市長に就任。そして栃木県知事・新潟県知事になるのです。さらに退任後、時期を得て高知に帰ってくるのですが、彼を待っていたのは、教育分野でした。

 大正9年に創立した土佐中学の初代理事長として、高知県の将来のために英才教育に取り組むことになるのです。高知における教育の必要性を感じていた彼が当時の高知県の財閥川崎幾三郎と宇田友四郎の両氏を説得、巨額の私財の提供を受け土佐中学を開校するのです。

 かつて、栃木県知事時代に、全国に先駆けて育英資金を発足させたり、一線から退いたあとでも東京で、土佐協会の理事として本県出身の子弟の奨学に尽力していたのです。自分自身が貧しさの中で学問をすることの困難さを実感していたからでしょう。

 彼も明治の男です。一直線の人生だったように思います。
 大正13年永眠するのですが、遺族は遺言によって「風葬」としたそうな。
 墓地を否定したのです。千の風に乗って」といった歌みたいですね。
 墓地は生産性がないのだそうな。それも考え方です。

 貧しい高知県の北川村の郷士の次男だったのです。北川信従といいます。もっと知られていい人物であろうと思います。
 高知県東部地域の人物列伝に入る資格十分です。
 彼の肖像画がいま北川村小学校にあるのだそうで、今度見に行きましょう。

 彼の兄、北川忠惇は政治を志し、自由民権運動に参加するのです。そして高知県議会議員となり、議長にまでなるのです。明治41年病没した際には、田野村葬の礼をもって送られたとされています。誠に盛大な葬儀であったそうな。

那波の泊は何処だ?

2010-01-27 11:35:57 | 田舎の理屈
 出来れば変わった地図を作りたいと思っているのです。
 かつてここは、こんなところだったのですといった場所がわかる地図。

 「土佐の国司を勤めていた紀貫之が任を満了して、京の都にかえる際、南国の港から漕ぎ出して、その晩は那波の泊で宿泊をするのです。」地域のガイドとしては、こうした説明をするのですが、さて「ここが那波の泊です。」といった場所が確定されていないのです。

 那波の泊は何処だ??。明記された記録がない以上、何かを基に推論です。
 1000年以上前の話ですからね。年寄りに聞くってものでもないし、田舎のことで記録があるで無し、ただ紀貫之の時代から200年以上以前に野根山街道が出来ていたのです。それに延喜式に出てくる多気・坂本神社があり、さらコゴロク廃寺があったってことは、相応の人数の人が住んでいたのは間違いのないところなのです。

 護岸堤防が出来ていない奈半利川は東西に流れを変えていたのでしょうし、野根山街道があったってことは、どこかに渡しがあったのでしょう。
 海岸から奈半利川を少し遡って川港といったところでしょうか。

 さらに森林鉄道が出来て奈半利の経済も格段によくなったのですが、なくなってしまうといつの間にか徐々に衰退しているのです。町中を走っていた路線も今は当然のごとく自動車が走っています。駅があったところも全く解らなくなっているのです。

 そうです。初めて奈半利の町中を歩いていて、困ったときに飛び込んで聞いてみたら良い店も入れてしまうかな。座って休める場所や、トイレの位置。
 あちこちにある石塀の場所。うまいものまで紹介しようかね。

 あまり変わらないのが田舎だと思っていたのですが、20~30年を経るとさすがに変わる場所がけっこう在るのです。
 かつての商店街に店は少なく、新しく出来た大型店舗は田んぼの真ん中だったりするのです。
 そう新しい駅だって何もなかったところに、出来てしまったのです。

 なにか高知県でも、今までになかったような地図になりそうです。

 何度かの大地震で土地が隆起したり沈下したのかもしれないのです。そうしたことが起こっていても不思議ではないほど、昔の話なのです。

 こうした作業はけっこう楽しいものです。
 20~30年に一度こうした作業を誰かがやると、そしてやり続けるとおもしろい民俗資料になりそうです。

土佐漆喰物語

2010-01-26 16:34:29 | 昔話
 漆喰は、古くから全国の城郭をはじめとした建築物を作るときに、特に外壁材として利用されてきたのですが、高知には土佐漆喰というものがあります。土佐漆喰は、いつ頃誰が作り始めたのか、ただの漆喰と何がどの様に違うのか、面白い記述がありますから、ご紹介します。

 時代は文化年間(1804~1818)頃に四国巡礼の途中に阿波の徳右衛門が稲生(羽根村史には下田と記述)で倒れ、路頭に迷いかけたところを村民に助けられたことから、恩返しにと石灰窯の焼き方や製造方法を伝授したのだそうな。良質の石灰石が大量にあったことからそのような話になったのでしょう。

 しかしながら技術を他国にもらした事で、阿波に帰る事ができなくなった徳右衛門はまた土佐に舞い戻ってくるのですが、稲生では冷遇されたことから、室戸の羽根村で住まいし、技術を伝えながら生涯を終えたそうな。
 
 以前に土佐備長炭の製造方法を伝えた和歌山の植野蔵次氏と似たような話です。
 四国88ヶ所巡りの遍路のたびは、土佐の経済にも大きな影響をもたらしたのです。
 道は人だけではなく、文化も運んでいたのです。

 それ以前の漆喰が石灰に海草糊と麻を混ぜてこねたものだったのですが、土佐漆喰は糊を使わないので乾いても戻りが少なく、厚塗りが出来、出来上がりのきめ細かさが特徴なのです。
 今現在でも土佐漆喰や土佐備長炭は現役の地域特産物として、地域経済を支えています。
 その土佐漆喰、奈半利町等の登録有形文化財にも当然のように使われております。

 高知県の東部地域の気候は風雨が激しく、家を守るためには厚く塗れることが大事だったようで、1センチにも厚く塗った壁を半分近くまで圧縮して塗り固める左官の技術が求められたのです。
 また水切り瓦などの工法も、土佐漆喰があったればこそ、といったところです。

 良質の石灰石を土中窯でコークス・塩と共に塩焼しその石灰に腐らせて発酵させた藁スサを加え、水を加えてこね、半年程度保存して土佐漆喰となるのだそうな。
 なかなかに手間隙のかかった技術の結晶なのです。

 漆喰の歴史は本当に古く、原始的な物で漆喰といえるのかどうか解りませんが、そのようなものが、高松塚古墳にも使われているそうな。

まちあるきツアー

2010-01-26 10:03:15 | 日記
 NPO高知市民会議が主催して奈半利の町歩きツアーが開催されるようですよ。

 うれしいじゃあないですか。
 わざわざ、奈半利へいこうなどと。それも電車に乗ってです。

 日時は3月6日(土)集合は8:00.高知駅コンコースですね。

          この辺が田舎の駅と違うところですねえ。
          コンコースですからね。

        奈半利でゆっくり2時間。あちこち歩きをやりましょう。
丁度、「町家雛祭り」が開催されています。
        いつもより、華やかな古民家が楽しめますよ。

        それから、午後はモネの公園か23士温泉を選べるようになっています。
 費用は大人2400円(中学生以上)
 問い合わせは、088-820-1540
 定員20名だそうですよ。


 今年の春の行楽のNO1になるでしょう。
 みんな一緒に、いらっしゃい。

 僭越ながら、私もガイドをアイつとめるつもりです。

志。

2010-01-25 18:53:57 | 日記
 土佐・龍馬であい博。こころざし社中。へ行ってきました。
 お昼頃に行ったのですが、お見えになっていた方が少なかったですねえ。3~4人程度でしたね。

 場所が狭い関係もあるのでしょうが、展示物も少なく博覧会会場といった印象はなかったですね。ただ、こうしたイベント会場以外の「高知県全域博覧会会場」のインフォメーションセンターだと思えば、これでいいのでしょう。
 
 少ない予算で、既設の施設を利用しながらイベントを開催しようとする努力はよくわかりましたね。

 「竜馬伝」もいつになく見ていますが、こんなに汚く表現しなくともといった感想でしょうかね。日本でもっともお金持ちになった方の自伝的な物語ですから、最初は厳しい状況であったことを、つい出しすぎているのでしょう。

 弥太郎の母は安芸の医者の娘ですし、さらに門人千人といわれた幕末の儒者岡本寧浦の妻と姉妹ですからね、倍賞さんが演じていますが、あれほどひどくはなかったようにも思うのですがね。ははは!。

 しかし志を抱いて出てゆくのです。
 大きな志を抱けば抱くほど、高知には、安芸にはいられないのです。
 今でもそうなのでしょう。
 これからのことを考えると、しんどくなりますが、できることを今やるしかないのです。

 志??。さて。抱いて地元で躍動する方。募集。出て来い志士。平成の志士達よ。

 討幕運動を成し遂げた志士たちが、生前語ったことによると、何かことに起こそうとした折に、30歳以上の先輩に相談をしたことはなかったそうな。

 今は・・・??。出でよ若者。ふくろう親父。の出番はないなあ。残念。

 
 
 

これは、びっくりです。

2010-01-24 23:43:37 | 日記
 今日の経済新聞によると、中国で自動車の新工場建設が急増しているらしいのです。

 外国の企業の合弁企業だけでなく、中国自社ブランドメーカーも、生産を増強しているようなのです。2009年に上位10社で約1200万台だった生産能力が2012年には7割増の2100万台に達する見込みだというのです。

 2009年に中国国内で新車販売台数が1364万台になり、中国は世界最大の自動車市場となったのですが、あと何年もしないうちに、世界トップの生産国になってゆくことが予想されそうなのです。

 ちなみに日本の国内生産台数は2009年には、1000万台を割り込んだことが決まっただけに、事は深刻です。
 資源を輸入して、それを加工して輸出することで、経済大国になってきた日本。
 
 日本企業の国内生産台数が海岸生産台数を追い越すことは、これからはなさそうです。
 企業としては、日本国内需要の低迷と為替問題が解決されないのですから、輸出も出来ないのですから、経営的に苦慮しているんでしょう。企業はね。

 製造大国日本が、サービス産業大国日本にシフトするんだろうか。
 物づくりを止めるのではないと思うのですが、先細り感はありますね。
 期待したいと思う。
 高知県の東部地域においては、直接的な影響は無いにしても、日本国内の景況に大きな影響がありそうですからね。深刻です。

 日本経済を牽引してきた自動車産業にもう一度元気になってほしいな。