諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

153 「学び」と私たち#7 「機械」で学べるか2

2021年09月12日 | 「学び」と私たち
絵地図   箱根旧街道 歴史好きな人には興味深いと思います。箱根越えルートがこんなに変わっているのは政治的な思惑なのでしょうか。


テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回も、「「機械」で学ぶことはできるか」についてさらに本質に迫ります。
その前提になるのは佐藤学さんの近著でのこんな論説です。

(行動主義の心理学者B・F・スキナーが1950年ごろ開発したティーチングマシンがコンピューター教育の起源と言われているが、)最近では彼のS-R-R学習理論を信じている学習科学の研究者はいません。S-R-R学習理論はネズミの動物実験にもとづく理論であり、言語やシンボルを活用する人間の学びにおいては、たとえS-R-Rで学びが成立したとしても、その記憶は短期記憶にしかならないが知られているからです。しかし、スキナーの学習理論はコンピューター教育の領域では生き延び、「教える道具(CAI)」としてコンピューター教育の伝統を作り出しています。(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)

スキナー等の行動主義心理学者の願いは、「ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないどろう。」だったとすると、その高い志に対して、方法論自体に盲点があったのかもしれません。
そして、その盲点がありそうなことが、子どもを前にした私たちが感じるCAIを全面的には受け入れにくい感覚と一致しているようにも思います。テキストにもどって、行動主義の源泉を探ります。

スキナーの理論の要素は3点。
1 偶発的行動の先行
2 即時強化
3 目標行動の系列化


はじめに、(注意深く設計された)条件設定された環境で、
(1 偶発的行動の先行)
生徒が、何らかのことをやってしまう、
(2 即時強化)
そしてそれが解となる「好ましい」行動だったら、即座に評価する。
(3 目標行動の系列化)
そして、その強化された行動から次の段階に至るように次の環境が提示される。

ということのようだ。そしてこの幾重もの連続性によって学習が進行される。
これが原理である。
したがって、ティーティング・マシンといっても、それは必ずしも何らかの機械的な装置を意味するとはかいらず、スキナー自身は意見普通に本に見える「プログラムド・ブック」と呼ばれるものを使っていたらしいが、さすがに学習者の反応が多肢選択になったり、さらに、反応の種類に応じて枝わかれしていったったりする形式のものは電子計算機でコントロールすることになる(Computer Assisted Instruction:CAI)。

いずれにせよ、基本的には、条件提示、答えの発見、次の条件の提示のシステムは変わらず、この学習形式総体を「ティーチングマシン」という。具体的には現在の学習ソフトである。

そして、テキストでは、この行動主義の学習システムを、
「教育の目標は「行動のことば」であらわせるか」
という項を設けて評価していくのだが、お察しのとおり結論は、佐藤学さんが述べている通り、「その記憶は短期記憶にしかならないことが知られている」ということになる。
そして、実際の課題はその学際的な見解を不問のまま開発がどんどんすすんでいることが今日的な問題ということになる。

しかし、佐伯さんの視点は必ずしもここではないのである。
この議論の過程で、高い志である「教育の科学化」を一つの問題提起として、教えることと、学ぶこととの本質を真理の2軸のように語っているのである。
少し長いが、省かなで引用する。

教育の目標を学習の「行動のことば」で表現し、それが到達されたか否かを検証することを強調し、学習者がその目標行動を達成したときにはじめて「教えた」と自認する、このような教育観は「成功的教育観」とよばれる。それに対して、従来の教育観にみられるように、教育の目標が教師の側で意図することがらとして、しかもそれが達成されたか否かについては外からの観察で「検証」することのできない「……を理解させる」式の表現であらわされているものは、「意図的教育観」とよばれる。いやしくも「教育の科学化」をめざしている人ならば、これはいかにも当然のことであり、そのためには、旧来の古い教育観から抜けきれない人々から誤解や非難をうけることがるとしたならば、これは誠に残念なことという言う以外にない。
教育の目標はできうるかぎり明確にしなければならない、学習者の行動のことがであらわすことがきわめて大切なことである、というについては、ここで十分確認しておくべきであり、「教育の科学化」をそこに賭ける、といってもよいほどに重要なことであることも認めよう。

もう一度繰り返すと、「わかる」とは自分にとって「わからないことがわかる」ことであり、また、「絶えざる問いかけを行う」ことでもある。ここで「行う」といっても、それは頭の中で、本人がやることであり、もちろん外から観察できる明確な行動の意ではない。また、どういう問いかけをするかも全く外から予想もできないし、規制することもできない。われわれは「考える」といわれれば、「“考えるな”といわれたこと」を考える。さらに、「わかる」とは過去の自分自身の経験(これも外からすべて予想できないものだとし規制もできないものであるが)とむすびついてきて、「無関係であったものがどんどん関連づいてくる」ことである。いわば、死に至るまで、「わかりつづけていく」ことなのである。
これを「教える」という場合、一体どのような外から観察できる、明確な「行動」として、その目標を記述できるというのだろう。


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