諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

154 「学び」と私たち#9 ①「解なし」の探求

2021年09月26日 | 「学び」と私たち
絵地図 これもまた旅情をさそいます。槍ヶ岳、穂高岳への新穂高温泉からのルートのターミナルでもあります。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回から最終章の「学びつづける存在としての人間」に入ります。
「おぼえる」から「わかる」へ、道徳というのは探求する過程であること、そして、「機械」そのものを凌駕する学びの深化が必要であること、と続いて、『学びの構造』という本そのもののまとめになる本章は、「学び」の本質に関わる含蓄ある文章うがたくさんあります。
ということで、しばらく、佐伯さんの引用のみで続けます。

引用① 「解なし」の探求

 そもそも、「教育」というものは、人間を何かに向かって育てるところにその本質をもつ。つまり、人間というものを、「可能性をもつもの」としてながめるわけである。
 ところで、この可能性というものは、「AがBとなる可能性」という形では表現できないというところに「可能性」の意味がある。いいかえるならば、教育においては「人間はどうなるべきか」という問いに、一方では仮に答えようとしつつも、他方では、この「どうなる」自体をもっともっと大きな可能性へむかってひろげていく営みでもあるわけだからである。
 強いて説明を要求すれば、「A(人間)が、B(何らかのもの)でなくなる可能性をもつもの」として人間をとらえるものとして人間をとらえているのが教育である。この場合でも、一番苦しいことは、「それではBでなくなったときは何になるか」と言われれば何とも答えられなという点で、ここに、さきにあげた自然科学の宿命とちょうど相対立する「宿命」があることが明らかであろう。
 いわば、教育においては、「AをBでないものとして説明する」とか、「AをB以上のものとして説明する」のであり、自然科学のように、「AをBによって説明」してしまったとたん、それは教育的視点を失う。


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