諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

31 歌

2019年06月16日 | エッセイ

(写真)湿原は黄色に。花の名はわかりませんが。

 

 

平成になってレコードが売れなくなった時、阿久悠さんが「歌が飛ばなくなった」といった。

 

どういうことか、流行らない。定番と思っていた歌番組もあっけなく店じまいとなった。

その時は社会の成熟し、個人の嗜好も多様化したなんて思った。いつまでも、ジュリー!でもないだろう。

 

しかし、一面では「歌が飛ばなくなった」は「歌に酔えなくなった」と言えるのではないか。

酔いにくい、飲んでも酔えない。それはある意味人生を難しくする。

 

小学校の子ども達に将来のことを聞くと歯切れが悪い。

当面、塾や習い事で繋いでいるという感じ。繋いでいくのが実際の人生であると予感しているのかもしれない。

複雑化して、仕事の内容も断片化し、高度に情報化がすすむ社会を想像しつつ、「当面、繋いでいく」生活を送っていく、のでは威勢があがらない。自分の生が歌(詩)になりにくい。

まして、自分の潜在的な力を発揮する環境にない貧困家庭の子や、虐待、長期の病気によって孤独感が離れない子、障害をうまく捉えられない子などは、生かされていると人生を不条理と感じることもあるだろう。

 

ある作家が「生活と人生とは違う」といった。

生活のために頑張る要素はいつの時代でもある。夢中に、あるいは必死で働くことは避けられない。

 

しかし、一方で広大な時間として人生をどうデザインするか、人生をトータルにとらえ自分をいかに対象化していくかのアイディアが乏しい。

「まじめにコツコツやれば認められるよ」なんて最近言わない。それが美徳として信じられていたころ大人もラブソングを歌ってたのではないか。

 

国家の経済規模とエネルギー消費とは、かなり相関性があるという。経済規模が大きく、エネルギーも沢山消費して、平均寿命も長い我が国は自殺率が高い。その理由が実感としてミクロ単位で理解できる気がする。

 

ミクロといえば、本校の生徒達は随分AKBと嵐にだいぶ支えられているから阿久悠さんの指摘のころの底値からは少し右肩基調に入っている?。

いつの間にか令和という時代になっている。

 


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