夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

平田玉蘊燭坐図 柴田義董筆 伝頼山陽賛

2010-05-20 09:41:59 | 掛け軸
平田玉蘊燭坐図 柴田義董筆 頼山陽賛
絹本着色軸装 軸先合箱入
全体サイズ:縦1155*横333  画サイズ:縦375*横148
インターネットオークションからの入手(落札金額:¥53,000)。

小作品ながら、なかなかの逸品です。賛を調べていくうちに、賛はどうも頼山陽の可能性があると解ってきました。



漢詩は七言律詩で「獨倚銀屏釵影横 酒醒燈冷此時情 柔腸九曲向誰語 付與隣樓絃索聲」(美人燭坐図 頼山陽)となり、

意味は「独り銀屏に倚って釵の影横たわり 酒醒め灯冷ややかなりこの時の情 柔腸九曲誰に向かって語らん 付与す隣樓絃索の聲」と読むそうです。

解りやすく言うと「一人で銀屏風にもたれてかんざしの影が畳に延びる、お酒の酔いが醒めて灯りも冷ややかに感じられるこの時の心情 やわき腸の曲折するような苦しみを誰に語ったらよいのでしょう、隣の楼からは弦楽器の音が聞こえています」ということだそうです。

多少、漢詩の心得のある方に読んで頂きました。

台湾の某レストランの「柔腸寸断」という料理は、シェフが失恋したときに考案した料理で、切り刻まれて油で揚げられたような心情をあらわして名づけた名前と言われています。

頼山陽はお堅い人物かと思いきや平田玉蘊との悲恋が有名です。この心情を綴った新発見といえるかもしれない。

賛は「珊洋題」とあり、賛の遊印などから頼山陽の可能性があります。「珊洋題」という号は資料では探しきれてませんが、「山陽」や「譲、子成」というすぐわかる落款や印章は避けた理由があるかもしれません。



この詩は漢詩の区分でいうと香匳體に属するらしいです。

香匳體(こうれんたい):香匳とは香を入れる箱、女性の化粧道具を入れる箱の意で、香匳體とは晩唐の韓・が編集した「香匳集」から始まる詩の一体で、婦人艶情 媚態 閨怨を歌った作品を指して云う。

元の有名な漢詩は「美人燭坐図 頼山陽 獨倚銀屏釵影横 酒醒燈冷此時情(独り銀屏に倚って釵の影横たわり 酒醒め灯冷ややかなりこの時の情)芳心一點向誰語 付與隣樓絃索聲(芳心(他人を敬って、その親切な心をいう語)一点誰に向かって語らん 付与す隣樓絃索」)です。

柴田義董の師である松村呉春と頼山陽は親交があったと思われます。

柴田義董:柴田義董:(1780)生まれ、備前、瀬戸内市邑久町尻海生まれ。寛政6年父の死を機に意を決し、京都四条派の松村呉春に師事する。「花鳥の景文」「人物の義董」「山水の豊彦」と洛中の人々が四条派の三哲と評した。江戸後期の四条派の画家。字は威中、通称は喜太郎、号に琴緒・琴海等。呉春に師事し、人物画に長じる。京都に住した。文政2年(1819)歿、40才。



頼 山陽:安永9年12月27日(1780年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日))江戸後期の歴史家、漢詩人、文人である。芸術にも造詣が深い。また陽明学者でもあり、大塩平八郎に大きな影響を与えている。幼名は久太郎(ひさたろう)、諱は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。また三十六峯外史とも号した。

安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤(らい つとむ)がいる
父の頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で、明和3年(1766年)には大坂へ遊学。尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いてその居宅を「春水南軒」と名づけた。山陽が生まれたのはこの頃である。母もまた梅颸の雅号を持つ文人で84まで長命したが、ために息子・山陽に先立たれることとなる。

天明元年(1781年)12月、春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居。山陽は城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、18歳になった寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛し京都の放蕩仲間・福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏する。しかし新九郎の家で発見されて広島へ連れ戻され、廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。

謹慎を解かれたのち、やはり父春水の友人であった儒学者の菅茶山(1748 - 1827)より招聘を受け茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。1809年(文化6年)、山陽30歳のことである。が、その境遇にも満足できない山陽は学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから2年後に京都へ出奔した。

文化8年(1811年)、32歳以後は没するまで洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が亡くなるとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。山陽は京都に在って営々と著述を続け、文政9年(1826年)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。ときに山陽47歳。翌年には老中・松平定信に献上された。

山陽の周辺には、京阪の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。さらに僧雲華、尾張出身の南画家・中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工・青木木米、そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。

山陽はその後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』等の完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年9月23日(1832年10月16日)、ついに卒した。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都円山公園・長楽寺に葬られた。

頼山陽は平田玉蘊との悲恋が有名です。

平田玉蘊:江戸後期に活躍した四条派の女流画家。尾道市の豪商「福岡屋」(木綿問屋)の娘として生まれた。
父・新太郎(画号:五峰)の画の師とされる福原五岳をはじめ、田能村竹田や菅茶山ら多くの文化人と親交があり、中でも頼山陽との悲恋は有名である。代表作の一つ、襖絵「美人船遊図」(福善寺)をテーマにした記念碑が2005年完成。玉蘊が眠る平田家菩提寺の持光寺にあるそれは、世界でも珍しい陶板絵で作られている。





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