夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

寒山拾得図 寺崎廣業筆 明治30年(1897年)頃

2024-08-02 00:01:00 | 掛け軸
収蔵庫のエアコンが寿命のようで、作品に1台、今年は2台が交換となりますが、どうもP社のエアコンが寿命が早いようで、D社にすべて取り替えました。



収納庫にはエアコンは必需設備で、除湿は湿気対策には必ず必要となりますね。



蒐集の際に要する費用と同等金額を維持費に費やすのが、蒐集する者は覚悟しなくてはならないようです。



さて本日は寺崎廣業の作品の紹介です。

寺崎廣業の作品は著名になる直前や著名になった頃の明治30年から40年頃に丁寧に描かれた作品に優品があるようです。むろん著名になってからもいい作品はありますが、その作品らが市場にで出回ることは珍しく、その時期に依頼されて描いた多作な時期の作品群はあまり見るべきものがなさそうです。このことが寺崎廣業の人気が廃れた大きな要因のひとつのようです。



寒山拾得図 寺崎廣業筆 明治30年(1897年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先塗 鑑定二重箱
全体サイズ:縦1960*横700 画サイズ:縦1230*横500

 

他の画家の作品でも幾つかの作品を紹介している画題としての「寒山拾得図」ですが、改めて記載された記事を紹介します。

********************************
寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。                



確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて, 村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。

拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。



寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。

********************************



********************************

補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。



寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。

「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。

********************************

明治25年邨田丹陵の娘「菅子」と寺崎廣業は結婚し、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えらます。よって「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定され、落款から明治30年作と推測されます。

この頃に落款の書体は「二本廣業」と称される書体ながら、字体はいくつか変遷しています。この書体は当方の所蔵作品で代表作のひとつの「護良親王図 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃」(昭和24年5月26日寺崎廣業名作展出品 主催:秋田魁新報社)と同じです。 

  

箱裏には「改装寒山題□図也」とあります。さらには「昭和三十七年春日八十叟□□簽 押印:八十□□(朱文白楕円印)、「□□□□(白文朱方印)」とありますが、鑑定された方は不明です。

 

表具は最近仕立てたものでしょう。



なかなか面白い表具となっています。ところで白磁の風鎮は人間国宝の井上萬二によるものです。掛軸はこういうものにもこだわる・・。

風鎮はエアコンの風対策や表具の曲がりを修正するのに用いますが、普段は付けないのが一般的ですね。






























最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。