夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

山水染付紗綾文様六角花瓶 湖東焼

2019-05-29 00:01:00 | 陶磁器
本日紹介する作品は本ブログでは初登場となる「湖東焼」です。「湖東焼」をご存知の方はどちらかというと赤絵の作品を思い浮かべる方が多いのでしょう。湖東焼には染付にも優品があるようです。

山水染付紗綾文様六角花瓶 湖東焼
誂箱
口径115~125*最大胴径140*高台径117~135*高さ245



本作品はなんとなくデルフト焼に印象が近い作品となっていますが、ひっつきのような跡があるなどまだまだ技術的には未完の作品となっています。

湖東焼(ことうやき)の来歴は下記のとおりです。

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湖東焼(ことうやき):日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称です。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来しています。

江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展しましたが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶しています。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられています。



文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛(寛政3年(1791年)~万延元年6月25日(1860年8月11日))は、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となっています。

晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行いましたが、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたりました。徐々に事業も軌道に乗っていきましたが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持していました。 有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果でした。

染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出されました。

半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となっています。創業の功として、半兵衛は伊藤の名字の使用を許されました。 湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えますが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしいます。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされました。 それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶しています。

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本作品は染付と「紗綾文様」が一体となった文様が新鮮です。



「紗綾文様」については下記の記述を参考にしてください。

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紗綾形(さやがた):卍(まんじ)つなぎの一種で,卍をななめにつらねた連続模様。くずした卍(まんじ)を連続させた模様。紗綾(さや)は4枚綾からなる地合の薄い絹織物。その地紋に用いられたのでこの名があるという。

この系統の模様は名物裂(めいぶつぎれ)に多くみられ,おそらく明時代の中国から伝わったものであろう。日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。 吉凶ともに通用し,染織品の模様に多く用いられ,特に綸子(りんず)の地紋として知られる。

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なお湖東焼にも下記の記述のように再興窯があるようですが、たいした作品はなさそうです。

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復興窯

滋賀大学の教授であった小倉栄一郎は復興に情熱を傾け、廃窯原因の定説を修正し、湖東焼の復興を目指して窯跡発掘や試作を愛好者らと共に進めることになった。こうして設立された「湖東焼復興推進協議会」は試作のために窯を築き、1986年(昭和61年)11月3日に火入れして、1年半がかり試作して1世紀ぶり再現した。

1990年(平成2年)に彦根城博物館が「湖東焼窯跡」の報告書を刊行。 彦根市教育委員会の発掘調査、1994年(平成6年)4月に御用窯の焚き口や房の床面を確認し、1995年(平成7年)4月に「湖東焼窯跡」の登り窯の4室新たに出土、全長30m幅5mで1段に2室と規模を確認した。 さらに2005年(平成17年)7月27日に同協議会は滋賀県の認証を得て新たにNPO法人「湖東焼を育てる会」として発足して、湖東焼登り窯の再現を目指した工事をし、2007年(平成19年)3月20日に火入れをした。

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やはり再興された窯より江戸期の藩窯時代に優品があるようです。



藩窯は直亮の代八年、直弼の代十年が盛期、直憲の代二年は終末期で通算二十年の短い歴史にすぎませんが、焼成技術は景徳鎮、伊万里に劣らない世界最高の水準に達し、絵付けにいたっては繊密豪華高尚、湖東焼独特の味を完成しています。

磁器の原料石は天草産に少量の彦根物生山の石を混じ、呉須染付の品はすべて藩の茶碗山の窯で焼き、赤絵金襴手の類は、素地はすべて藩の窯で焼いたのち藩の絵付窯で絵付けすることも多かったとのことですが、城下町や近在の民家に据えられた錦窯と呼ぶ小さい絵付窯でも焼かれたようです。これらは民窯赤絵湖東焼と呼ばれるものです。

本作品はまだ技術的には未完成かな?



湖東焼の作品の優品と思われる作品では下記の作品をインターネット上にて検索できました。

参考作品
湖東焼染付観瀑図花瓶
高さ258



「茶席で使えるほどの優品は数が少ない湖東焼」というと湖東焼のファンには失礼かもしれませんが、中には鑑賞に堪えうる作品があるようです。



デルフトに似た感じの染付、幾何学的な紗綾文様との組み合わせは江戸期までの焼き物にはないものですが、ただ幾何学的な文様は紀州御庭焼の偕楽園焼に通じるものがありますね。



どうです? 床に合うと思いませんか? 



さて、何を活けたら似合うのだろうか? なお床の軸は川合玉堂の作品です。





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