
当方の所蔵作品ではありませんが、倉田松濤には自画像と言う作品が存在しており、その作品の余白に自ら使用していた印章が押印されています。

倉田松濤は一時期人気があって贋作も多いと聞いたことがありますので、この資料を参考にして当方の所蔵作品と照合してみようと思っています。ただし当然ながらすべての印譜ではないように思います。

本日の紹介する作品では自画像はちょっと変わったというか、倉田松濤らしい妖怪の自画像?のようなもののあったり、しかも絵巻物になっている非常に珍しい作品です。家内がどうしても欲しい?というので入手した作品ですが、倉田松濤にしてはお値段が高かった
*巻物としての誂えを当方で整えておきました。

誰がどのようにしてこのような巻物にしたのかは一切不明です。

展示室の渡り廊下に広げてみると長さが7.5メートルもあるようです。ちなみに展示室はこのように掛け軸などの作品を広げますので上履き専用です。陶磁器、掛け軸などの作品を広げてみるには床が一番ですので、床に埃やごみは禁物ですので、展示室は上履き専用としています。

お気に入りの作品 妖怪絵巻 倉田松濤筆 その31
紙本水墨淡彩 巻物仕立 合箱入
全体サイズ:横75,000*縦260
出だしは東京に転居した時期かな? 家内が読める範囲で読んでもらいましたが、いつもながら難解・・・。

「新歳早々 東都に 転居の 心算 否 大に 運動中に□
十中八九は 上りて□ なむ□」
*倉田松濤は大正初め(1914年頃? 47歳頃??)に東京牛込横寺町に転居し、近所に住んでいたと尾崎紅葉と親交を深めています。

倉田松濤の詳しい画歴の資料は当方にはありませんが、下記の書物「秋田画人伝」には下記のような記載があります。

ここに東京に転居したことが記載されています。

なにかといつも難解な倉田松濤の文、家内が床に座り込み解読を始めました。




「二月二十八日は平生の三十日 屁さゆひも
いま二つ□で 迂生この 山海 興未生物」



倉田松濤の画歴と写真は下記のとおりです。
************************************************************
倉田松濤:秋田出身の画家。慶応元年、秋田市生まれ。父祖は大仙市太田町の出身。本名は斧太郎。幼い頃から角館(現在の仙北市角館)の平福穂庵(ひらふくすいあん)に師事する。少年時代から各地を放浪してまわったらしい。帝展(現在の日展)にも数回入選した。重厚な存在感のある仏画・俳画を多く残している。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年7月11日死去。

************************************************************
「御よく忘之 婪尾を酌まむか・・ 母に叱らる 返し
否 間一飲み? とこしで□が 妙々」

「清風徐々来て水波興る 時々□料 月々金弐圓陳述す 家主土□
婦人は壹トを以テ□となし 枯(柑?)橘なる
寒木冬葉の一嫗の眉 痘面(あばたづら)にして
頭に胡麻塩の螺髪を戴き 身には 翩翻(へんぽん)たる黄布の十徳袍を着し
其家に接するや 従容として 慇懃 其 筮じて周易を□する其音調□は緩に
其々調或は急に一去一来気焔□重 実に乾坤を呑吐する所謂ケンノンな婆様
煎沙燗石の愪?も為に其心肝を寒む からしめラル 又□□六韜を□らむじ
三□を臍の下におさめ以てホラ頑冥姑 息浅識短視と云ふ 御家様の賊
□□の底を以て自□□資産にあつるが如し」

「所謂三才の 胸間にて 六合を呑吐 するもの 豈それ 他あらむや 一読開に □読むま 相風其のちつ 末鵬尾の □を賜ひし 春も 何時しか秋の末 冬のはしめ とはなりぬ□□
浮世の□□は尚 省る時と改められずして 鵬翼□□延る能はず □□ら□申の
涙を□ふの然も莫けれバ 嘗ての如く 活裸大畫を 活描する事もなく 満?腔の熱血より 迸ばしる大嘆息」

「□□むぼ はつ□にても 二流ときては マダマダ 世間がこの 松濤畫作 を二流あつかいひカ 喝
葉桜や乞食 にもらふ 煙草に火 梁川の 芝仙堂干 松濤□
以下不明」

「前紙□は具の上にて この足袋〇太平 短歌の一種も玉ひしか」



「前封の通 十日には出京否 九日ソーシテ 十日は小石川の 帝国婦人会 出席の都合
に候□□ それより 河野夫人同伴にて 東海道藤沢まで かの遊行上人の像を 写し申の 以来か□□ □都合 にも成と□□」






なんとも難解・・・、手紙か日記か・・???? 誰が貼り合わせたのか? ともかく妖怪画としても面白いですね。


倉田松濤は一時期人気があって贋作も多いと聞いたことがありますので、この資料を参考にして当方の所蔵作品と照合してみようと思っています。ただし当然ながらすべての印譜ではないように思います。

本日の紹介する作品では自画像はちょっと変わったというか、倉田松濤らしい妖怪の自画像?のようなもののあったり、しかも絵巻物になっている非常に珍しい作品です。家内がどうしても欲しい?というので入手した作品ですが、倉田松濤にしてはお値段が高かった

*巻物としての誂えを当方で整えておきました。


誰がどのようにしてこのような巻物にしたのかは一切不明です。

展示室の渡り廊下に広げてみると長さが7.5メートルもあるようです。ちなみに展示室はこのように掛け軸などの作品を広げますので上履き専用です。陶磁器、掛け軸などの作品を広げてみるには床が一番ですので、床に埃やごみは禁物ですので、展示室は上履き専用としています。

お気に入りの作品 妖怪絵巻 倉田松濤筆 その31
紙本水墨淡彩 巻物仕立 合箱入
全体サイズ:横75,000*縦260
出だしは東京に転居した時期かな? 家内が読める範囲で読んでもらいましたが、いつもながら難解・・・。

「新歳早々 東都に 転居の 心算 否 大に 運動中に□
十中八九は 上りて□ なむ□」
*倉田松濤は大正初め(1914年頃? 47歳頃??)に東京牛込横寺町に転居し、近所に住んでいたと尾崎紅葉と親交を深めています。

倉田松濤の詳しい画歴の資料は当方にはありませんが、下記の書物「秋田画人伝」には下記のような記載があります。


ここに東京に転居したことが記載されています。

なにかといつも難解な倉田松濤の文、家内が床に座り込み解読を始めました。




「二月二十八日は平生の三十日 屁さゆひも
いま二つ□で 迂生この 山海 興未生物」



倉田松濤の画歴と写真は下記のとおりです。
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倉田松濤:秋田出身の画家。慶応元年、秋田市生まれ。父祖は大仙市太田町の出身。本名は斧太郎。幼い頃から角館(現在の仙北市角館)の平福穂庵(ひらふくすいあん)に師事する。少年時代から各地を放浪してまわったらしい。帝展(現在の日展)にも数回入選した。重厚な存在感のある仏画・俳画を多く残している。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年7月11日死去。

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「御よく忘之 婪尾を酌まむか・・ 母に叱らる 返し
否 間一飲み? とこしで□が 妙々」

「清風徐々来て水波興る 時々□料 月々金弐圓陳述す 家主土□
婦人は壹トを以テ□となし 枯(柑?)橘なる
寒木冬葉の一嫗の眉 痘面(あばたづら)にして
頭に胡麻塩の螺髪を戴き 身には 翩翻(へんぽん)たる黄布の十徳袍を着し
其家に接するや 従容として 慇懃 其 筮じて周易を□する其音調□は緩に
其々調或は急に一去一来気焔□重 実に乾坤を呑吐する所謂ケンノンな婆様
煎沙燗石の愪?も為に其心肝を寒む からしめラル 又□□六韜を□らむじ
三□を臍の下におさめ以てホラ頑冥姑 息浅識短視と云ふ 御家様の賊
□□の底を以て自□□資産にあつるが如し」

「所謂三才の 胸間にて 六合を呑吐 するもの 豈それ 他あらむや 一読開に □読むま 相風其のちつ 末鵬尾の □を賜ひし 春も 何時しか秋の末 冬のはしめ とはなりぬ□□
浮世の□□は尚 省る時と改められずして 鵬翼□□延る能はず □□ら□申の
涙を□ふの然も莫けれバ 嘗ての如く 活裸大畫を 活描する事もなく 満?腔の熱血より 迸ばしる大嘆息」

「□□むぼ はつ□にても 二流ときては マダマダ 世間がこの 松濤畫作 を二流あつかいひカ 喝
葉桜や乞食 にもらふ 煙草に火 梁川の 芝仙堂干 松濤□
以下不明」

「前紙□は具の上にて この足袋〇太平 短歌の一種も玉ひしか」



「前封の通 十日には出京否 九日ソーシテ 十日は小石川の 帝国婦人会 出席の都合
に候□□ それより 河野夫人同伴にて 東海道藤沢まで かの遊行上人の像を 写し申の 以来か□□ □都合 にも成と□□」






なんとも難解・・・、手紙か日記か・・???? 誰が貼り合わせたのか? ともかく妖怪画としても面白いですね。