夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 伝古九谷 青手九谷 鳥草花文大皿

2022-02-23 00:01:00 | 陶磁器
応接室では畑から採ってきた梅の蕾が咲き始め、庭先では福寿草が芽吹き始めました。



*梅を活けている作品は、「古伊万里 窓丸染付蛸唐草文小壺 江戸中期」です。



玄関に置いてある水槽のメダカも活発に動き始めて餌を催促はじめました。寒いながらも確実に春がそこまできています。



さて本日は富山県から入手した古九谷らしき大皿の作品です。



うぶな作品のようです。最後の包装したらしい昭和37年の「北國」の新聞紙が入っていましたが出所の詳細は不明です。収納箱は虫食いだらけで崩壊寸前でしたが、当方にて修理しておきました。



*北國新聞(ほっこくしんぶん):石川県金沢市に本社を置く株式会社北國新聞社が発行する地方紙。

収納箱内の資料として必要そうなものは遺しておきます。それにしても収納箱はあまりにもあちこちが虫食いだらけ・・  このような箱は裸にしておいては危険ですので、風呂敷に包んで保管しておきます。



伝古九谷 青手九谷 鳥草花文大皿
合箱
口径410*高台径*高さ90



あらためて古九谷の概略は下記のとおりです。

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古九谷:大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)に藩の殖産政策として始められましたが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となっています。

窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っています。「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手、五彩手、青手などに大きく3分類されています。

祥瑞手、五彩手、青手の特徴は下記のとおりです。

祥瑞手:赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いた作品。
五彩手:黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いた作品。
青手:色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式の作品。

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人気の高い「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群ですが、その生産地についてはまだ論争があるようです。



その論争についてはすでに一般的ですが、その概略は下記のとおりです。

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これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめました。

有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となっていました。

東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土し、1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出されました。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断されました。

以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 - 1650年代の肥前産と考えられています。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もあります。

さらに古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされています。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が有力とされました。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっています。

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「古九谷伊万里説と素地移入説」の論争は研究されている方々にお任せることにして、本日の作品の青手九谷について触れてみたいと思います。



*古九谷の陶画工は日本画の師について勉強しているとされ、一目で何の鳥かわかるとされていますが、当方では鳥に詳しくなく不明です

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青手九谷:(あおでくたに、あおてくたに)とは、石川県(加賀藩や大聖寺藩)で作られてきた九谷焼のうち、見込み(表面の模様)に青色を多く使った磁器全般のことです。青九谷ともいいますが、青色といっても実際は緑色を呈しているし、磁器といっても一般に“半陶半磁”と呼ばれるように陶器のように見えます。



見込みには動植物・山水・幾何模様・名画などが描かれ、器の表裏を埋めつくす塗埋手(ぬりうめで)で盛り上げて作られ、華麗豪華です。



青手古九谷は基本的に素焼きをしないで乾燥しただけの生素地に釉薬を掛けていますが、近代の作品では1回素焼きをして釉薬を掛けているなどから高台付近で新旧が識別されます。1回素焼きをして釉薬を掛けているような作品は近代的な工房で作ったことが歴然としますが、古九谷と称するおおよその作品はこの点で落第となります。



高台(こうだい、底の脚)の中に、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多いとされますが、銘のない作品も存在します。



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青手九谷は、加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されています。この作品を青手古九谷などと呼ばれています。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われます。



古九谷時代を通して作られた慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期です。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもあります。青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえ、空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠となっている作品です。



初期の色絵のため、釉薬の安定度はあまりよくありません。とくに青系統の発色などには気泡が発生していることが多いようです。



綺麗な印象というより、作品を観た第一印象は汚いという印象を受ける作品が結構多いとされます。



基本的には虹彩を発するものが多いとされます。

*コールタールなどで発生させた虹色などもというものは全く違いますね。



口縁には胎土の悪さを隠すためとされる柿釉が施されています。これは明末の南京赤絵に影響かもしれません。



その後九谷焼は作られなくなりましたが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、これあらを合わせて「再興九谷」と称されています。



再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったとされますが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られません。

その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られました。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものです。この吉田屋窯では日用品が多く量産されましたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られています。赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いた作品ですが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっています。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになります。

豆皿 再興九谷吉田屋 
割補修有
口径115*高さ25



再興九谷(吉田屋?) 椿文小皿
合箱
口径110*高さ28



この吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開きましたが、「宮本窯」では精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られません。

再興九谷 宮本屋窯 八郎手雲龍文大皿
誂箱
口径327*高さ60



その後も「民山窯」「若杉窯」「小野窯」などが作られましたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られました。

再興九谷 小野窯 青絵水注
谷口𠮷次郎鑑定箱
幅180*高さ200



再興九谷 松山窯 青手山水図大皿
合杉古箱
口径337*高台径*高さ65



以上のように「古九谷」、「吉田屋窯」、「松山窯」にて優品の青手九谷が作陶されたとされますが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくいとされています。

「古九谷」は大名などを取引相手にしていたので、飾るための大皿がメインで、吉田屋窯は日用品が多く作れましたが、同じ図柄がないなどその矜持を維持したとされます。また松山窯は官営から民営に移行したため官窯時代の青手の優品が多く作られたとは思われず、青手の古九谷、再興九谷の優品はかなり数が限られているようです。

ひとくくりに九谷と称してもその種類は数が多く、いつの時代、どこの窯で作られたかの判断は非常に難しいものがあります。

当方の拙い所蔵作品で辿ってみましょう。

氏素性の解らぬ作品 古九谷青手? 葡萄文鉢
合箱
口径290*高さ70



氏素性の解らぬ作品 古九谷? 青手葉図大皿
合箱
口径320*高さ64



氏素性の解らぬ作品 古九谷OR吉田屋 青手 波ニ雲龍
合箱
口径245*高台径90*高さ57



古九谷においても学ぶことは数多くあります。骨董蒐集の道のりはともかく長いし、奥が深い・・。ともかくようやく変遷が解りそうな蒐集に辿り着いた・・・?? 

青手古九谷の見分け方というのは非常に難しいのですが、手頃な初心者向け資料に下記の別冊太陽の特集号があります。



この特集に際して古九谷の青手の大皿が発見されたそうです。



古九谷の青手の大皿は一見小汚く見えるものとされます。美術館クラスの作品は焼成がきれいにできあがっている作品がほとんどですが、古九谷の青手の大皿の多くは技術が不完全のため釉薬上にブツブツが生じていることが多いようです。



釉薬はどす黒いくらい深く沈んで色合いになっています。



形の造形では腰がはった段の状態が付いた形状になります。段がなかったり、平たい形状の作品は再興窯以降の作品となります。



その各々の特徴は本記事に掲載のとおりです。



1.胴に段を付けた造形



2.濃密で豪放な文様構成



3.それぞれの色釉の深い色調
4.口縁の鉄釉



5.高台周辺の鉄釉
6.角ばった「福」の字の銘の書き方



ご覧の方々はいかに感じるかは各々に任せるとして、ビギナーズラックや高額を費やしての一流店からの購入以外で掘り出し物の真作に辿り着くには常に至難の業・・。間違っても小生のような回り道をした蒐集のやりか方の真似しませんように・・。



最後に似たような絵柄の参考作品を紹介します。能美市九谷焼美術館蔵において「ぜひみてほしい九谷焼5点」のひとつとして紹介されている作品です。

参考作品
古九谷 青手芭蕉図平鉢 江戸前期
能美市九谷焼美術館蔵



説明文より:「青手」の魅力は力強い線描と豪放なタッチ、そして濃厚な三彩(緑、黄、紫)。戦国から安土桃山時代の美意識を受けついだ前田家の大名気質をあらわすような豪放華麗で、やや粗野であっても見る者の魂を震わせるダイナミズムさを内包する魅力があります。当時、色絵磁器は希少で、その製作方法も知られていない時代にて最先端を行く中国明代の技法を取り入れてはいますが、その表現は中国の模倣はしていない独自な趣があります。



古九谷の力強さや豪放さには、大名向けに作られたいうことが納得できるような戦国の世の威風が遺っており、その絵付けはフリーハンドでためらうことなく、力強く描かれた呉須線が見事です。縁周りの木目模様もリズミカルで迷いがない。



本日の作品とよく似通った作品ですね。さて当方の古九谷、再興九谷の勉強は今少し続きそうです。本日はガラクタ揃いの蒐集作品から九谷特集・・

さて我が蒐集にも春よ来い・・・。



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