
片山楊谷は江戸時代中期に活躍した長崎派の絵師ですが、特にその虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれており珍重されています。

本日は「関羽と周倉図」と題された作品の紹介で、「その6」となります。
関羽と周倉図 片山楊谷筆 その6
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1410*横440 画サイズ:縦790*横310
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1410*横440 画サイズ:縦790*横310


描かれている「周 倉」は実在しない人物のようですが、概略は下記のとおりです。
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周 倉:(しゅう そう)『三国志演義』『三国志平話』『花関索伝』『山西通志』『関大王独赴単刀会』『聊斎志異』に蜀漢の武将として登場する架空の人物。ただし、関羽と魯粛との会談(単刀会)での発言は元になった人物が存在するが、姓名不詳。
古典劇目の『走麦城』、『収周倉』、『収関平』で字は元福。
小説『三国志演義』の第二十七回で、黄巾時代からの同僚裴元紹から語られているところによると、出身は関西地方(涼州)であり、両腕に1千斤の怪力があり、鉄板のような厚い胸板に、渦を巻くような形の縮れ髭の容姿であるという。関羽の側近として有名なため、実在の人物ではないにもかかわらず、湖北省当陽県麦城村(当陽市南東30km)には墓が建立され、関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られている。中国や華僑の居住地では、現在でも信仰の対象とされている。周倉は架空の人物となっているためか、関羽の赤兎馬と同じ速度で戦場を自らの足で走って従軍したとされ、そこから様々な伝説を生んでいます。
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片山楊谷の本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟。一説に「名は温、一に義夫、字は玉如。父は長崎で医者をしていた洞雄山、あるいは洞雄敬の子として生まれています。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われるが定かではないようです。幼少時に父を亡くしています。

1772年(安永元年)13歳で諸国を巡歴して、19歳の時には既に5人の弟子がいるほどの腕前でした。17歳で鳥取の興禅寺に逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木村の医師・中山東川の娘を妻としています。
若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、楊谷を引き止めるため、1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子としました。翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めています。
1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得ています。円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えたとも。また、学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露しています。更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下の位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼しています。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美としてと名硯・石王寺硯を与えたそうです。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれています。

1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっています。ところが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡、享年42。菩提寺は鳥取の興禅寺、または長崎の大音寺のようです。
画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測されます。しかし、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが観察できます。特にその虎の絵を得意とし、虎の毛を細い線で丹念に表した作品は「楊谷の毛描き」と呼ばれて高値で取引されています。

本作品にも片山楊谷の絵かきとしての尋常ならざる才が見て取れます。

痛んではいるものの再表具されており、状態は良好です。

印章と落款は資料と一致します。

下記の作品は真贋不明としての参考作品です。
参考作品解説
関羽将軍出陣之図 片山楊谷筆
紙本水墨軸装 軸先骨 極二重箱
全体サイズ:縦1995*横748
関羽将軍出陣之図 片山楊谷筆
紙本水墨軸装 軸先骨 極二重箱
全体サイズ:縦1995*横748

鉾の刃の根本部分の造りが本作品と同じですね。

この作品も本物かもしれません。これらの作品は大切に保管しておくべき作品でしょう。