夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 青磁 牡丹・源氏香文獣面三脚水盤 

2024-04-21 00:01:00 | 陶磁器
青磁といってもいろんな産地や製作の時代があって、それを素人が判断するのはむずかしい、というよりほぼ不可能のようです。

この度入手したのは飼っているメダカを鑑賞するのによいと思って入手したもので、要は風情があればなんでもよかったのですが・・。

ちなみに金魚は横から、メダカは上から鑑賞するのがよいとか・・・??



メダカを入れてみたら意外に端の反った部分に隠れてしまいました。徐々に慣れてきて中央部分を泳ぐようになりましたが、口反りがメダカの鑑賞にはあまり良くないという事がわかりました。



最初に利用しようと思っていたのがもともとあった作品で、下記の作品です。



(天龍?)青磁源氏香紋三足鉢 明時代
古箱入
口径215*胴径235*高さ70



おそらく香炉として作った?ような作品ですが、鎹で補修された外観は面白い。ただし見込みに釉薬ないため、メダカ鑑賞用の水盤としては風情に欠けますね。



そこで入手したの下記の本日紹介する作品です。



氏素性の解らぬ作品 青磁牡丹・源氏香獣面三脚水盤 
誂箱
口径*胴径197*高さ58



青磁の復習となりますが、青磁としての分類は、まず中国のものとしてよく知られているものは、龍泉窯で製作された3種類の青磁、「砧青磁」「天龍寺青磁」「七官青磁」ですね。

1.「砧青磁」は南栄時代に造られ、青緑の釉薬から素地の土が透けて見えます。光沢の発色は穏やか。国宝・重要文化財に指定された、「青磁鳳凰耳花生」が有名です。

2.「天龍寺青磁」は元時代から明の初期に焼かれ、黄色みを帯びた青緑の釉薬を使用。大皿や花瓶が中心。

3.「七官青磁」は明の終わりから清時代の作品で、透明な青緑の光沢が特徴です。アヒルや獅子などをモチーフとし、個性豊かな香炉を中心に制作。

「砧青磁」はまずなかなかか存在しませんし、本作品とは色が違いますね。「天龍青磁」か「七官青磁」のどちらかというと本作品は「七官青磁」に近いかな?ただし、「七官青磁」独特の貫入が一切ないため、これも違うと思われます。

見込みの牡丹?が風情がありますね。これが魅力で入手したのですが、この風情は天龍青磁にはないもの・・。

さて日本の作品とすると、鍋島や初期伊万里青磁から始まる伊万里、さらには伊万里を焼いた佐賀県有田町の隣にある、その他のたとえば波佐見青磁(長崎県波佐見町で焼かれた 木場山窯)・三田青磁などの諸窯のものや京焼も・・。

もちろん鍋島焼とは釉薬(色)が違いますし、波佐見にしても三田にしても土が違うように思うところはあるのですが、こってりと掛けられた釉薬や刻文様から波佐見青磁と考えれますが・・。



波佐見焼は本ブログの他の記事でも紹介されています。

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波佐見青磁:伊万里を焼いた佐賀県有田町の隣にある、長崎県波佐見町で焼かれた波佐見青磁(木場山窯)。

 波佐見焼は、17世紀初頭に佐賀県・有田を中心に生産がはじまった日本初の国産磁器である伊万里焼誕生後まもなく、有田と隣接する波佐見にて焼造がはじまったやきものです。

 はじめは波佐見西部にて陶業と平行して磁器焼成の試作を行っていましたが、1630年代には磁器の原料となる陶石が産出される波佐見東部の三股(みつのまた)にて開窯し、磁器専業となります。その三股地区の主力製品であったのが青磁。清らかな水を彷彿とさせる釉色と丁寧な陰刻文様、印花(いんか)や貼花(ちょうか)などの技法が駆使された優品が多くみられます。
 
 その釉色から清廉な雰囲気をもつ波佐見青磁は城跡、家老や幕臣の屋敷跡、寺社跡など、当時の富裕層が暮らしていた場所から出土しています。その丁寧な作行きから察するに高級品として流通していたのでしょう。

 例えば、小田原城下・欄干橋町遺跡の外郎家屋敷跡にて1987年に行われた調査では、江戸初期の廃棄とみえる遺構で織部や志野などの比較的高級な日本産陶器と共に、中国・明時代の青花、白磁、青磁が一括して出土しています。さらに17世紀中期の地層からは、伊万里焼の染付や波佐見青磁も一括出土しており、豪奢な暮らしぶりがうかがえる遺物のなかに、波佐見青磁も登場しています。



また、仙台城本丸跡からは牡丹文を陰刻した、波佐見三股青磁窯出土の青磁皿と類似するおびただしい量の陶片が出土しています。その数からして饗宴のためのうつわであったと推察され、行事ごとや、他国の大名をもてなすのに相応しいものとして、波佐見青磁が選ばれていたのでしょう。ちなみに、こうも大量に出土したのには、正保3年(1646)の地震の被災に際して一括廃棄されたためと考えられていますが、いずれにせよ雄藩であった仙台藩伊達氏の居城から多くの波佐見青磁がまとまって出土したことは、当時の上流階級層における波佐見青磁の需要を考える上で興味深い現象とされるでしょう。



 「何故、波佐見は青磁を主力にしたのか」ということですが、江戸時代には伊万里津から出荷され、伊万里焼の名を冠していた波佐見焼、一足先に磁器の生産体制を確立させ、染付を主力とした有田製品との差別化を図ったのではないか、三股地区にて産出される陶石の特性から、灰がかった白色に焼き上がる素地を隠すために青磁を主流としたのではないかなど、波佐見における青磁生産の契機については諸説あり、未だ見解の一致をみていません。そこで、当時の消費地遺跡に目を向けてみると、上流階級層における中国産青磁への憧れと、それを彷彿させる波佐見青磁の需要が見えてきます。
 
 我が国で中国産の青磁の流通が最盛期を迎えるのは鎌倉期時代(1185頃~1333)のこと。日本への貿易陶磁の一角を担っていた青磁の名窯、浙江省・龍泉窯の製品は、時の権力者に好まれて重宝されました。ただし、16世紀以降は、江西省・景徳鎮窯をはじめとした青花製品に国内外の市場を奪われて、衰退の一途を辿ります。そのような状況下であっても、江戸初期の上流階級層の人々にとって中国産の青磁は、これまでと同様に大切にされていたようです。
 
 波佐見青磁が出土している城址から中国製青磁も出土している例はいくつかあり、それらは全て上流階級層の遺構です。例えば、先に挙げた仙台城本丸跡からも14世紀から15世紀頃の龍泉窯青磁の大盤が出土しています。さらに、この遺跡では、16世紀後半から17世紀後半にかけての中国産の上級品が数多く出土。なかでも景徳鎮民窯で焼造された祥瑞や古染付など、しばしば伊万里染付の手本とされた青花製品とともに、伊万里焼の染付皿も出土していることから、中国の貿易磁器と日本の国産磁器の需要層が重なっていることを如実に感じさせる例といえましょう。
 
 波佐見青磁の文様表現にも、中国からの影響がうかがえます。特に龍泉窯にて明時代初期に作られて我が国に運ばれてきた、造寺料唐船である天龍寺船が呼び名の由来となった「天龍寺青磁」の一群にしばしば見られる線彫りと片切彫りの陰刻は、波佐見青磁の陰刻技法と酷似しており、その背景として伝世している龍泉窯青磁を何らかの方法で丹念に研究したことは間違いないでしょう。
 
 すべて龍泉窯そっくりに真似をしているわけではありません。特に、最大の違いである釉色は原料の違いはあれども、深い緑が特徴の龍泉窯青磁とは異なる清んだ水色を持つのが波佐見青磁。上流階級層が中国磁器を求めている最中に、波佐見は龍泉窯の青磁に私淑しながらも独自のやきものを作りました。ちょうど、中国磁器を目指しながらもオリジナリティーを深めていった有田の伊万里焼とも通じるものがあります。いずれにせよ磁器専焼体制が整って間もない17世紀前半の時点で当時の最高水準と呼ぶに相応しい良質な青磁を生み出した波佐見の窯業にかける熱量は大きかったことでしょう。



*外側の文様を「源氏香文」と称するのは無理があるかな・・???

 初期から高い力量を誇った波佐見の窯業全体に目をむけると、各時代の要請に果敢に応える産地の努力が見えます。三股地区系の青磁は、発掘調査などの結果から、前期は17世紀前半までの生産と推定されています。その後、17世紀後半から海外輸出の活発化に伴い、新たな窯場が開かれて、生産体制を整えていきました。後期は特に波佐見地区全体で東南アジア向けの染付の碗類の焼造に注力していきます。そのなかで、波佐見青磁の主要な生産地は三股地区から永尾地区の木場山窯へ遷り、アジア向けの龍泉窯の大盤を模した青磁を生産していました。

 18世紀に入り海外輸出が低調になると、窯の巨大化と窯詰めの工夫を重ね、国内向けの「くらわんか」と呼ばれる厚手の染付碗類を量産する体制へ波佐見全体がシフトしていきます。折しも、18世紀は江戸時代のなかでも食文化の発展が見られる時代。そうした背景も相俟って、国内の染付需要が高まったことで、それに柔軟に対応した独自の大量生産体制を構築し、現代の波佐見のやきもの事業のスタイルに繋がっていきます。その一方で、17世紀前半より、波佐見の窯業の一柱となっていた上質な青磁の生産は、1720年ごろの長田山窯での生産を最後に、安価な染付製品の需要に圧されるように終焉を迎えることとなります。

 波佐見は開窯当初から、時代による需要層の変化に多感に対応し、購買層の好みや必要に応じた適切なやきものを作り続けてきました。そのはじまりともいえる青磁は、需要層の好みを敏感に察知して、作風を展開していく産地の性格を確立する、重要な作例と位置づけることができます。清廉な波佐見青磁から、当時の人々の中国磁器への憧れ、そして波佐見のたくましい生産意欲、職人たちの矜持が垣間見える焼き物ですね。

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すっかり波佐見青磁を復習することになりました。



三足にはほぼ釉薬が掛かっているので、底の中央になにかを置いたか、もしくは窯の中で宙づりにして焼成したのか・・・・??

 波佐見焼は17世紀前期のものが美しい色合いやシャープな彫りでかなり高い評価が出ます。後期のものは、高台の部分が広く茶色く釉薬がはがしてあることがあり、そこの真ん中に一本筋が通っている跡があります。これはチャツと呼ばれる碗型をした窯道具で持ち上げて窯の中に入れた跡で、この技法が中国から伝わったのが17世紀半ばとされ、この後があると後期のものと判断されるようですが、本作品はあるような、ないような・・・???。

印刻(片切彫)のシャープさは波佐見青磁日に近いのですが、やはりひっかるの色ですね。清んだ水色を持つのが波佐見青磁とすると、どうしても三田青磁か古伊万里系統か・・、もしくはさらに時代を遡る近代の日本での青磁か・・???



なにはともあり、たいしたものではない作品のようですが、作りは丁寧であり、口反りを除けばメダカ鑑賞の水盤にはもってこいでしょう。



脚を獣面と称するのも無理があるかも・・・・・。



この作りで関連して思い出すのが下記の作品らですが、あくまでも復習としての参考作品らです。

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参考作品 なんでも鑑定団出品作品 
2015年2月17日放映
七官青磁の大香炉



評価金額:100万
評:中国明王朝後期に浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁。江戸時代前期にはかなり多くの数が輸入されている。鮮やかなグリーンで透明感が強い。そしてそこに細かい貫入が入っており、格子文の中に渦がちょっと描いてある。三本の足の先まで釉薬がついている、ということは窯の中で宙づりにして焼いている。作り方が大変良い。依頼品は大香炉なのだが、日本ではこれを水盤に使い、“石菖鉢”と呼んだ。

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参考までに天龍青磁の作品として下記の作品を挙げます。

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参考作品 その2
天龍寺青磁七宝繋文三足鉢(元~明)



天龍寺青磁(てんりゅじせいじ)とは元代(1271~1368)から明代(1368~1644)初期にかけて龍泉窯で作られた青磁で、釉色が黄味のある沈んだ青緑色のものを呼びます。 天竜寺の名の由来は、南北朝時代、天龍寺造営を名目とする貿易船・天龍寺船によって舶載されたからとも、夢窓国師が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹の香炉からともいわれます。



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青磁についてのある程度の復習となりました。日本は青磁という焼き物で中国から多大な影響を受けているので分類が難しいのでしょうが、ともかく焼き物の中で青磁の世界は難しく魑魅魍魎のひとつ、奥が深いですね。










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