夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

灰釉茶碗 廣永窯(川喜田半泥子作?) その3

2024-04-15 00:01:00 | 陶磁器
温かくなってくると元気なので、我がメダカ・・。今回の冬を無事に乗り切ったようです。



品種はいろいろですが、今回の水換えで黒(黒龍)、赤(ヒメダカ)、 幹之 などを選別しておきました。他にも白メダカやらたくさんいますが、ちょっと増えすぎていますので、今年は調整かな・・。



さて本日の紹介作品です。

廣永窯の茶碗とされるものですが無銘で合箱に収められていた作品であり、家内が選んだ作品です。



初期の廣永窯の作であることは間違いないと思いますが、作者については、出来の良さから半泥子の可能性も考えられます。ただし薄くスッキリとした作りで、半泥子の高弟とされる廣永窯の「萩原実三」の作かもしれません。

下記は廣永窯についての記事です。

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廣永(ひろなが)窯は川喜田半泥子が自邸津市千歳山の登り窯を、昭和21年に現在の長谷山山麓なる閑林池畔の静寂境に移したことに始まります。

川喜田半泥子は、伊勢商人屈指の豪商川喜田久太夫家の16代当主であり、 木綿問屋の店主、百五銀行頭取のほか、数々の企業の要職を務めましたが、その多忙な生活の中で、書画、茶の湯、俳句、写真、建築など多彩な趣味を持ち、 型にとらわれない自由な姿勢で優雅に遊びました。なかでも50歳を過ぎてから本格的に始めた陶芸においては、「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」とも称される半泥子の芸術は、多くの人を魅了し、近代陶芸に残した足跡は趣味の域を超え注目されました。

昭和38年に川喜田半泥子が亡くなった後は、開窯当初より半泥子の作陶を最も身近で見てきた坪島土平が引き継ぎ、その作品は多くの陶芸愛好家に人気があります。器類は著名な調理人から高く評価され、廣永窯を趣味の焼物から事業にまで展開し、平成25年に坪島土平が亡くなった後、廣永窯の伝統は下田正人、藤村州二の両陶芸家に受け継がれ、その後、他の窯で修業された2人の陶芸家(福森資、坂口久司)も加わり、現在に至っています。

実は川喜田半泥子先生に弟子として、二人いた事は意外と知られていないようです。一人は前述の坪島土平、もう一人は萩原実三です。実は萩原実三の方が坪島土平より弟子としては先輩です。

萩原実三は戦前より半泥子に仕え、陶芸の手伝いはもとより、諸事雑務などをされていたようです。戦後、美術商の間では、「半泥子に二人の高弟有り。轆轤の土平、焼の実三」と呼ばれていたとされます。

二人とも半泥子を心底尊敬し、心の師としておられましたが、陶芸家としての生き方は違ってたようです。
坪島土平が「半泥子先生の精神を継ぎ、いつかは自分の形を作ろう」と志していたのに対し、
萩原実三は「目指すものは半泥子先生の心と形」と考えていたとされます。

萩原実三の作品はかなり半泥子に似ており、以前、昔の萩原実三作の擂鉢を坪島土平が見て、「半泥子やで、これは」と言われたくらいでした。同じ廣永窯で二人は、それぞれの道で、素晴らしい焼き物を作りました。

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いずれにしましても、半泥子の作風を色濃く持つ、初期廣永窯の優品と言える茶碗だと思います。

灰釉茶碗 廣永窯(川喜田半泥子作?)その3
合箱
最大口径135*高さ75*高台径



あらためて川喜田半泥子の略歴は下記のとおりです。

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川喜田 半泥子(かわきた はんでいし):1878年(明治11年)11月6日~1963年(昭和38年)10月26日。日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。

*なお無銘や簡略化されたサインの作品が数多くあります。

前半生・財界人として
大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)に入学、1900年(明治33年)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、1901年(明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。



1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収し、1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していった。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。1931年の金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切った。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。



芸術・文化活動
陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放で破格と評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。
豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援した。文化施設は1945年に戦災により焼失したが、財団法人はその後も文化活動を行った。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設した。また、1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり、後に人間国宝となる陶芸家「荒川豊蔵」「金重陶陽」「三輪休雪」を支援した。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転し、自宅にあった窯もこの地に移した。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となった。1955年には再び千歳山に住まいを移した。
死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立され、川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開していた。石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転している。



半泥子という名は号であり(本名は川喜田久太夫政令)、禅の導師から授けられたものです。「半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず」何にでも没頭し、泥んこになりながら、それでも冷静に己を見つめることができなければならない、という意味です。

陶芸は還暦近くになって始めたものでしたが、戦前は自邸の千歳山に窯を築いて、若き陶工たちと交わって研究を重ね、戦後は津市郊外の廣永に窯を移し、会社組織の廣永陶苑を設立、愛弟子 故坪島圡平(2013年没)らと共に作陶に励みました。戦前の千歳山窯と、戦後の廣永窯で生涯に生みだした作品は、3万点とも5万点とも言われ、その大半が茶碗でした。



昭和32年5月26日、京都仁和寺にて、川喜田半泥子80歳の記念祝賀会が催された。 それに伴い刊行された「半泥子八十賀百碗鑑」と自作の茶碗100点が、招かれた100名のお客様それぞれに配られた。

祝賀会に出品されたものではなく、後日になって渡された茶碗もあることなどが書かれた書状によって分っています。 奇をてらうことなく、伸び伸びと大らかな作調が半泥子らしさと品の良さを感じさせる逸品らで、時には高台脇に「八十 泥子」の銘が彫られています。

こうした作品らはその多くが行方が分かっていません・・。

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本日紹介している作品は実は家内が購入した作品です。



「どうこれ?」と見せらた作品に対して、小生の感想は「いいじゃない。」と一言・・。



かなりの確率で半泥子の作品に相違ないと判断しています。



残念ながら共箱ではないし、箱書も一切ありません。高台脇になにか彫り銘がありそうでもあり、なさそうであります。



一応、このままの箱に半泥子らしいということで明記しておきました。



後世にて真偽は判断されるでしょうが、稽古用に使うには良き碗だと思います。






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