
ちょっと印章に違和感があったのですが、安かった?ので(10,000円弱)ので蒐集対象としている寺崎廣業について参考資料とするためにも購入した作品です。

真贋不詳? 聖徳太子画賛 寺崎廣業筆・磯長本雅賛 明治44年(1911年)頃
絹本着色仏画軸装 軸先真鍮 誂箱
全体サイズ:横580*縦1640 画サイズ:横430*縦940
*賛を記している磯長本雅については「高野山第406代)高野山真言宗総本山金剛峰寺僧正」という以外は詳細は分かっていません。


賛はよく読めませんが、解る範囲では「冒頭の印(関防印) 八万三□□□□□□□十□□ □□□□霊威西□大聖文殊□□ □□□祇園精舎□都霊治□□□ □□□□□□四天□□□□□ □□□也
明治四十四年(1911年)辛亥運動 ・・・・磯長本雅・・・・押印」
とまでは解りますので、全くダメですね。ただ明治44年作か?
祇園精舎と聖徳太子の関連事項としては、熊凝精舎という聖徳太子が釈迦の祇園精舎にならって創建した仏教修行の道場が奈良にあります。この熊凝精舎の跡地に建てられたのが額安寺で、大安寺の前身出あると言われています。
ちなみに「祇園精舎の鐘の声」(平家物語)で有名な祇園精舎とは釈迦が説法を行った場所です。

明治44年に寺崎廣業は3月26日に奈良女子高等師範学校にて絵画の描き方を講演しています。さらに奈良の古美術を探っていますが、この時期の奈良訪問時に距離的に非常に近い高野山と縁があった可能性があります。

聖徳太子が16歳のとき、父の用明天皇が床に伏しましたが、太子は日夜看病し、香炉を捧げて祈ったそうです。一心に病気平癒を願うこの作品のような太子像は「孝養像」と呼ばれています。

その一つ(上記写真)が金峯山寺(きんぷせんじ)(奈良県吉野町)にまつられていますが、題材としてよく絵にも描かれています。像にしても絵にしても、少年の髪形の角髪(みずら)を結い、目尻の上がった表情は、きりっとしているものです。

この作品は金峯山寺に祀られている「聖徳太子孝養像」に関連していると推察しています。
書き込みが素晴らしい作品となっており、寺崎廣業のこの時期の作品としては違和感はありません。

磯長本雅はよく知りませんが、贋作にはこのような賛のものはないように思われます。



寺崎廣行のこの時期の落款の書体には違和感はありませんが、問題は印章です。この印章の「廣」の部分がもっと丸っぽいのが通常知られている印ですが、このような印章があったのでしょうか? 拝画ということで新たに彫ったのか、通常の作品には滅多に押印しない印かもしれません。

どうも当方では「贋作とは思えない」という判断です。他にもこの作品については調べることが多々ありますが、徐々に調べてみることにします。ひとつの作品で色々学べるのは楽しいものです。