
最近の当方の蒐集は郷里出身の画家に重きを置いて蒐集しています。日本画においては平福父子(百穂と穂庵)、寺崎廣業、福田豊四郎がメインです。実は郷里の男の隠れ家のリニューアル工事に着手したことによる資金の制限、蒐集活動も年齢的に厳しくなったことで、ある一定に分野に制限せざる得ない状況もあります。

秋景山水図 平福百穂筆 その145
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横495*縦2225 画サイズ:横360*縦1280


一見すると異様な感じのする風景画ですが、大正期の頃に平福百穂はこのような山水画を描いています。

新たな南画への挑戦とも言える作品群だと思います。平福百穂はロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指しています。1916年(大正5年)に金鈴社結成後は、中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表、やがて昭和期には、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至っています。

南画は江戸後期から明治初期にかけて流行した日本独自の絵画です。池大雅や与謝蕪村らの名が知られる南画は、本来、反権威的で柔軟な性格でした。しかし、形式主義にとらわれた「つくね芋山水」と揶揄されるなかで明治半ばには衰退したものとして、日本の近代美術史ではあまり重要視されていません。
ところが、大正期には西洋美術の新思潮「ポスト印象主義」以降の動向が日本画家たちにも影響を与え、南画に再び注目が集まります。洋画から日本画に転じた画家たちなども含め、画派を超えた自由な精神と表現性が見られる新時代の絵画は「新南画」と呼ばれています。その先駆けとなった作品に平福百穂の作品が位置付けされています。

1919年(大正8年)に 東京世田谷三宿(みしゅく)に平福百穂は画室(現在の世田谷にあったらしく、昭和2年に隣接して新居が建てられています。)を設けており、このことから落款や印章に「三宿草堂」などが用いられています。ただし画塾名は「白田舎」(平福百穂が大正8年に創設した画塾「白田舎」)であり、この名の印もまたあります。これらの落款や印章を記された作品は大正8年以降の作と推定されます。本作品もこの落款から大正8年以降の作と推定されます。


後期印象派以降の動向が日本画家たちにも影響を与えた大正期には、画派を超えて自由な精神と表現性に新時代の絵画を求めた動向は「新南画」と呼ばれました。今ではあまり話題とならない新南画ですが、多くの画家がこの「新南画」に挑戦していました。