夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

大津絵? 青面金剛図  

2021-11-08 00:01:00 | その他
10月末の土日は急遽、温泉へ一泊。不在投票を済まし、息子の実験(サイエンス)の授業完了後の午後に出発しましたが、近場の温泉ですので夕刻には到着しゆっくりしてきました。



翌日は予約していた漁港でダイビングスーツに着替えます。



やや海が荒れていますが、波をかぶりながら沖へ出ました。息子はあまりに揺れるので漁船にしがみついています。



その後はゆっくりとイルカとの触れ合いです。



そして海に入ってイルカと泳ぎました。



息子はイルカの背や腹につかまって一緒に泳いでいました。



小生はカナヅチゆえ早々に海からあがりしたが、息子は意外に度胸があるようで、初めての試みながら大喜びしていました。



さらに途中で日帰り温泉で湯船から絶景を愉しんできました。



さて本日の作品紹介です。

古大津絵における仏画で最も多くたくさんの遺品があるのが「青面金剛」とされています。大津絵の生まれた江戸初期から中期における背景には、民間信仰としてその時代より古くから青面金剛が尊重されていたことがその理由でしょう。この信仰は一般には「庚申」信仰と称されるものであって、このことから大津絵に限らず他の地方でも長きにわたって版画が作られて数多く遺り、地方によっては版画に限らず石仏も少なくないようです。

本日紹介する作品は古大津絵?のその「青面金剛図」と思われる作品で、簡単な額装にされておりますが、当時そのままの表具が遺されている作品です。



古大津絵? 青面金剛図  
紙本着色軸装を額装 黄袋+タトウ
全体サイズ:縦400*横325 画サイズ:縦370*横123



古大津絵の「青面金剛図」ではその作品の大きさはまちまちであるとされ、資料によると「大版のものが最も古いとされており2枚継の作品が多い」と記述されていますが、当方ではそれは誤りで大きさで時代差はないと推察しています。

その具体的な寸法は図集の寸法を参考にすると縦900mm~320mm程度、横350mm~200mm前後であり、大きい作品は縦850mm*横380mm、小さな作品では縦350mm*横180mm程度であろうと思われますが、本作品は縦370mm*横123mmであり、幅では最も小さなサイズとなるようです。



資料では図相は古いほど複雑で、最初は「中央に金剛、左右に二童子、猿と鶏、下に夜叉(鬼共)」とされ、段々簡略化され、時代を経るにつれてまず夜叉が消え、二童子が消え、最後に二猿と二羽の鶏のみが描かれる図となったされています。この記述も誤りで目的次第で図の書き込み具合が変わり、時代差はほどんどないであろうというのが当方の推察です。



なおすべての図は「庚申待」の折に用いられるものあったとされます。本作品はユニークな図柄や版画や着色の出来から大津絵と思われます。

*ただし多くの地方でこの庚申様を版画で江戸期から明治期まで数多く作られていたと考えられます。



*なお古大津絵の「中央に金剛、左右に二童子、猿と鶏、下に夜叉(鬼共)」という書き込みに多い作品は最も古いという説と、石仏の製作者のために依頼されて描いた特別な作品という説があります。



「庚申待」とは道教では、「人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行く」という説話があります。 そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習がありました。



庚申待は平安貴族の間に始まり、近世に入ってからは、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まったそうです。地方ではかなり最近までこの風習があったようです。



「青面金剛(しょうめんこんごう)」とは、日本仏教における信仰対象の1つです。青面金剛明王とも呼ばれており、夜叉神でもあります。インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、「日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格」とされています。

庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされます。一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多く、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もあります。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られます。

彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られますが、この青は釈迦の前世に関係しているとされています。 以上のような姿は、密教の明王像、特に軍荼利明王に通ずるものがあるとされます。



江戸時代の掛軸画では青面金剛を中央に、日月、二猿二鶏を従えており、日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いようです。また日月、二童子、四夜叉、二鶏、それに「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿を配置する図柄もあります。木造の古例としては、奈良・東大寺の木造青面金剛立像(重要文化財)が著名です。

「庚申待」は地方で盛んにおこなわれていたようです。当方にも下記の所蔵作品(明治時代?)がありますが、少なくても戦前頃までその風習はかなりあったのでしょう。ある意味では地方の集会、宴会みたいな存在でもあったのでしょう。神棚などに飾る版画作品は大津絵以外にその頃までたくさんあったのでしょう。図柄は地方でも徐々に変遷していったようです。

 

当方の郷里でもお男の隠れ家にも当時の「庚申待」の折に用いられたと思われる作品がありますが、おそらく江戸末期から明治にかけての作品ではないかと思われます。注目すべきは下左の写真の作品は本来の庚申様に関わる全ての像が描かれている点です。

右下写真の作品も図柄は違えど上記の当方の所蔵作品と似ている図柄で庚申様に関わる作品かもしれませんね。

 

その時には幾つかの版画の作品が発見されていますが、昔の神棚に祀られていた作品かもしれません。昔の庄屋などの地方の有力者の家にはこのような信仰に関わる掛け軸がたくさんあったのでしょう。骨董市にはたくさん出回っていましたが、今ではほとんどが打ち廃られているようです。

 

*この作品らは東北を襲ったリンゴ台風の被災によって、男の隠れ家の屋根裏からぼろぼろの状態で発見された作品です。古くから大切にされていた作品と推察して当方にて額装に仕立て直しています。その時は小生には庚申様という知識すらありませんでした。

もともと古大津絵の青面金剛の図は、土産物用に大量に作られた商品とされ、本尊の体や猿など大部分を紙版(合羽刷り)で作り、光輪や鶏は木版を押し、ごく一部を手書きで仕上げています。古大津絵の青面金剛の図は日本民芸館に数点所蔵、大津氏歴史博物館に10点ほど所蔵、町田の青面金剛展カタログにも2点収載されていますが、現在では残存数が非常に少ないとされており、大津絵ファンには大津絵の仏画類は垂涎の作品となっています。

古大津絵の青面金剛の図は絵姿として

① 儀軌の4手像で持ち物は輪、三叉戟、索、蛇
② 蛇の巻き付いた棒ではなく生蛇を持つ
③ 足元に向かい合った2匹の立ち姿
④ 炎の後光輪
⑤ 二童子、四夜叉、邪鬼を持たない。

などの特徴が共通ですが、前述のようにどんどん簡素化されて、下記のような図集に掲載されている作品が主流となっています。

 





上記の写真のような大津絵の仏画は貴重な作品とされ高額で取引されていますが、実は大津絵以外に実にたくさんの版画に手彩色の作品が信仰の対象として出回っていたことは忘れ去られています。



入手時の額装が痛んでいたので、かびているような部分もそのままにして新たな額装に仕立ててみました。



手前は江戸期の大黒天(平櫛田中の箱書き)を置いてみました。


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