夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

巴御前図 無落款 

2013-11-20 05:50:19 | 掛け軸
昨日は元同僚、若しくはそれに近い人と築地で一献。かなりストレスが溜まっているらしい・・。

さてと浮世絵は無落款に良い作品があることが多いようですが、本日はその無落款の作品です。

題材となっているのは巴御前、巴御前をご存知であろうか・・・・。

巴御前図 無落款 
絹本着色 軸先螺鈿 合古箱
全体サイズ:縦1455*横812 画サイズ:縦453*横642



巴御前:(生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。字は鞆、鞆絵とも。

『平家物語』によれば、源義仲の便女。『源平闘諍録』によれば、樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の妹で、源義仲の妾。よく妻と誤記されるが、源義仲の妻は巴御前ではありません。



「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。

「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」む~。美人ということらしい。




幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされます。京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという・・・、怪力らしい。

そのときを画題とした作品でしょうが、武者がコミカルに描かれており、なにか嬉しそう???



本作品は「やけ」がひどく、江戸期の頃の作品と思われますが、大切にされてきた作品のようで改装された表具も立派なものです。



軸先には螺鈿が用いられています。



細部にわたってよく描けています。



巴御前 補足説明

軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれています。

「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったということです。

義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとしますが、巴はなおも落ちようとしなかった。

再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てたという。前記よりはこれが本作品の画題のようです。

その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされるています。

京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされています。

『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされています。

敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っています。

落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだことになっています。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られいます。



巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されていません。

女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高いとのこと。

『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係性も書かれていませんが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』において大きく人物像が書き加えられています。


ただし、『吾妻鏡』に越後の城氏の一族である坂額御前の健闘により討伐軍に大被害が生じたとの記事があり、当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在します。

鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、女性であれ認められていました。とはいえ、戦は人の命を奪う非日常的な行為でもあったため、戦国時代でも、戦勝祈願などの神事に、陣幕の内側にまで白拍子、遊女、傀儡女がよばれたことも多く、真偽のほどはわかっていません。



作家の海音寺潮五郎は金刺氏の持ち城に山吹城という城があることから、巴と山吹は義仲の支持勢力である中原氏と金刺氏が一族の中でも優秀な娘を副官・秘書官として派遣したと推察しています。

「よくぞ残っていれくれた」という作品ですが、作品の分類としては肉筆浮世絵か

ただ、おもわず隣の家内をみて、首を絞めないでといいそうな作品ですね。

家内が美人かどうかは別にして、美人はお~コワ


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2 コメント

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Unknown (minchou)
2013-11-23 17:15:59
今晩は。
確かに、これは恐妻家の人達(夜咄さんも?)に受けるように描かれた絵かも。 面白いです。(が、私は違います。笑)
詳しくは分かりませんが、テーマの処理の仕方や絵の一部に英一蝶と似た雰囲気があるので、描いたのは一蝶と同じ頃の町狩野のような立場の人物ではないでしょうか。
そうした人たちの絵の中には時々小品ながらキラリとする佳作を見かけますが、この絵もそんな感じがします。
最近はまた狩野派の見直しが盛んですが、もっぱら奥絵師ばかりでなく、もっとこうした自由な発想をした絵師らを特化して見直す、そうした展覧会があってもいいですよね。
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町絵師 (夜噺骨董談義)
2013-11-23 21:05:36
私は恐妻家ではなく愛妻家ですよ

なるほど町絵師ですか?
無落款や無名の画家の作品の展覧会は面白そうですが、どうやって作品を集めるかですね

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