夜噺骨董談義

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浜鳥之図 平福百穂筆 伊藤左千夫賛 その120

2024-08-16 00:01:00 | 掛け軸
本日は非常に珍しい平福百穂と伊藤左千夫の合作の作品紹介です。



浜鳥之図 平福百穂筆 伊藤左千夫賛 その120
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1480*横550 画サイズ:縦610*横420



1902年(明治35年)頃から平福百穂は歌人伊藤左千夫、長塚節らと知遇を得ていますが、更に正岡子規と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残しています。 



伊藤 左千夫の略歴は下記のとおりです。

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伊藤 左千夫(いとう さちお):本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉~ 1913年〈大正2年〉7月30日)。日本の歌人、小説家。明治期に活躍しています。

明治法律学校(現・明治大学)で学びますが、眼病のため中退し帰郷します。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めています。短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となっています。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作りました。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞されたそうです。晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えました。門人に島木赤彦・斎藤茂吉らがいます。



補足
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市殿台)の農家出身。父は上総道学の流れを汲んだ漢学者であり、和歌にも通じていました。小学校卒業後、直ちに佐瀬春圃の私塾で学びます。論争好きで政治家を志したこともあるなど、バイタリティのある性格であったとされます。1881年(明治14年)4月明治法律学校(現・明治大学)に入学するも眼病を患い、同年12月に中退。

中退後、豊功舎という牧場で毎日早朝から深夜まで働き、数年で独立。26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めています。仕事が軌道に乗った後は伊藤並根から和歌や茶道を学ぶなど、趣味人として交際の範囲を広げました。

1898年(明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表し(当時の号は春園)、御歌所の歌人・小出粲の歌を批判したことから紙面上で論争を繰り広げます。同年「日本」に掲載された正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読んで感化され、1900年(明治33年)に子規庵を訪れて会話を交わしてからは三歳年下である子規の信奉者となり、毎月の歌会に参加して子規に師事するようになります。「牛飼が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる」(『伊藤左千夫歌集』)と詠み、身分や出自によらず誰もが自由に詠める世となることで新しい短歌が生まれるという、子規の精神を込めた一首が代表作となっています。

子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、「写生」の教えを継承しました。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成しています。

日露戦争(1904年 - 1905年)の前後には好戦的な短歌を作り、開戦前には「子をつくるふぐりはあれど敵(あた)怒るふぐりは持たず・・・」(1903年)と非戦派をそしり、開戦後は「起て日本男児」などと呼びかけています。また、1906年(明治39年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価されます。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていました。常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌『求道』(求道発行所)に短歌を寄稿しています。

1913年(大正2年)に脳溢血のため南葛飾郡大島町の仮寓で死去。戒名は唯真居士。斎藤茂吉の歌集『赤光』に収められた「悲報来」は、左千夫への挽歌です。

伊藤左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けています。一戸建ての茶室を欲し、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されています。



上記写真は九十九里浜に近くにある伊東左千夫の生家(千葉県山武市殿台393(成東町))です。

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本作品は残念なことに共箱ではありませんので、詳細は不明な作品です。



伊藤左千夫によると思われる賛は
「人皆の遊ぶ 睦月を 波枕 矢刺が浦に 吾は来にけり」
「伊藤左千夫の九十九里詠」にある短歌

人皆:ひとみな (その場にいるといないとにかかわらず) 人間はだれしも
睦月:1月
矢刺(矢指):千葉県九十九里の浜のことか? 千葉県旭市の矢指ケ浦海岸のことか・・。
「やさし」の由来は、一里ごとに矢を刺して九十九里を測ったためといわれています。遠浅で静かな波、美しい砂浜が海水浴客を引き寄せます。
*伊藤左千夫の生家に近い・・・。


九十九里浜の近くで生まれ育った伊藤左千夫が友人の平福百穂の描いた浜鳥に賛を記した貴重な作品と思われます。


この短歌は「伊藤左千夫の九十九里詠」にあるものらしいのですが、詳細は調べていませんが、他に「九十九里の 波の遠鳴り 日のひかり 青葉の村を 一人来にけり 」という短歌があり、伊藤左千夫の故郷の海である千葉県九十九里浜を詠んだ短歌の一首ですが、亡くなる数日前に詠まれたそうです。

1913年(大正2年)夏、52歳の伊藤左千夫は体が弱っていたようです。生まれ育った九十九里浜に帰ってきましたが、帰って数日後に脳出血で亡くなっています。親戚の葬式に出たあと亡くなったようであり、彼が自分の死を予知してたかどうか知りませんが、脳出血なのだから調子がいいわけもなく、ただならぬものを感じていた状況だったのでしょう。

 九十九里の歌には「り」の字がくりかえし使われてます。「 くじゅうくり、波の遠鳴り、日のひかり、ひとり、来にけり」の 合計5つ使われてます。りの字を繰り返し連続わざで使うことによって繰り返し打ち寄せる波の音をあらわしてます。 

病み衰えろうそくが消えかかってる自分に波の音と陽光と青葉・・、こんなういういしい若葉の季節。打ち寄せる波の音は永遠の象徴なのでしょう。そして青葉の村は青春の象徴。

なにか伊藤左千夫の小説である「野菊の墓」の主人公、政夫と民子との淡い恋のような切なさがある短歌です。

なお1933年(昭和8年)10月25日に平福百穂もまた兄の急逝を受けて秋田県横手町を訪問中に脳溢血で倒れて亡くなっています。妙な縁のある二人・・。


*1913年(大正2年)夏、九十九里浜に帰郷した際の作かどうかは不明ですが、少なくともこの作品を描いたのは明治末から大正初期でしょう。落款の書体と一致します。

**作品中の印章は未確認ですが、明治期の作品に用いた印章自体の資料が不足しています。平福百穂の印章自体を時系列に整理した資料が未だにないようですが・・。

 

正直なところ真贋は不明なれど、真作ならば貴重な作品となるでしょう。



近日中には作品を染み抜きして改装しようと思っています。


























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