夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

鶴之図 狩野芳崖筆 その2 

2013-11-19 10:29:29 | 掛け軸
昨日投稿した狩野芳崖に引き続き、第二作目の投稿です。

さすがに最盛期の晩年の作品は市場に出ることもないでしょうが、狩野派時代の作品はまだ市場に出ることはあるようです。当然ながら贋作を注意しなくてはなりません。真作かどうかは当方では断定はできませんことを、ご了解の上で作品を愉しみください。

鶴之図 狩野芳崖筆 
紙本水墨淡彩 軸先象牙 岡倉秋水鑑定書・鑑定箱、野村素軒鑑定箱二重箱
全体サイズ:縦1815*横515 画サイズ:縦920*横385




落款に「勝海筆」とあります。木挽町狩野家に入門、画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられた嘉永2年(1849年)から、同5年(1952年)頃に師の名から一字を得て雅道と号し独立までか、あるいはさらに安政4年(1857年)に芳崖と名乗るまでの作品と推察されます。年齢では21歳から36歳までとなります。

印章は「貫甫」の朱文白方印です。文献と印章は一致します。




狩野 芳崖:文政11年1月13日(1828年2月27日) ~明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。

盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った画家です。

岡倉秋水:1869*-1950? 明治-大正時代の日本画家。明治元年12月11日生まれ。岡倉天心の甥(おい)。

狩野芳崖に師事し,フェノロサの鑑画会に出品。明治22年東京美術学校(現東京芸大)に入学するが,翌年より女子高等師範で教え,のち学習院教授。この間日月会を小林呉嶠らと結成した。昭和25年?死去。82歳?福井県出身。本名は覚平。




箱書の鑑定の落款と印章は下記の写真です。



もうひとり野村素軒も箱裏に署名していますが、どうも題名は野村素軒によるもののようです。

野村素軒:書家・政治家。山口県生。名は素介。貴族院議員を務め、男爵を授けられる。書に秀で、選書奨励会審査長・書道奨励会会頭を務めた。昭和2年(1927)歿、86才。





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狩野芳崖 補足説明

生い立ち:1828年下関長府印内で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴のとき長府藩御用絵師となり、5代察信の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。

要は生粋の狩野派の画家ということです。


弘化3年(1846年)19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、勝川院雅に学ぶ。嘉永3年(1850年)には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。

狩野芳崖は橋本雅邦と無二の友人となり、佐久間象山の影響を受けているということ・・、そして本作品の落款にある「勝海雅道」を勝川院雅信から与えられています。ただ、狩野芳崖は師である勝川院雅信を無能の画家と評しています。





芳崖として:その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。安政4年(1857年)近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期には、戦勝祈願の絵馬「武内宿禰投珠図」(忌宮神社蔵)や、「馬関海峡測量図」(下関市立長府図書館蔵)を描くなど、当時の社会と密接した芳崖の活動がうかがえる。

この頃、自ら旧套を脱し一頭地を出る意味を持つ雅号を探り、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めたと伝えられる。

ここでようやく『芳崖』という号を用い始めます。

明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。

明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。

この時期に所謂大名からの依頼されて作品を描いています。

大名物とは違い、本作品は二重箱なども存外中途半端・・、要はそれほど高級ではないということ。でも当時はこれでも高級かも知れません。





フェロノサとの出会い:同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。

本作品は席画として描かれていますが、なかなか品格があるとは思いませんか?




日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた「仁王捉鬼図(におうそうきず)」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった。

表具には補修の跡があり、初心な状態ではなく一度痛んだ表具を改装しているようです。




フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。

フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。

フェノロサとの出会いにより、新たな絵の具を用いたり、狩野芳崖の代表作がこの頃製作されました。


芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。墓所は東京谷中の長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。



正月や目出度いことには、床の間には「鶴之図」というのがだいだい決まりごとのような時代のようです。橋本雅邦も多くの鶴の作品を遺しているように、数多くの依頼が舞い込んできたのでしょう。




弟子:岡倉天心の甥岡倉秋水、岡不崩など。芳崖死後、明治29年の『太陽』(二巻二号)には、河鍋暁斎、菊池容斎と共に「近世の三大画家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの画に不満だったらしく、「北斎や暁斎は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容斎や是真なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている。


軸先は本象牙・・、当時、今も本象牙は高い



橋本雅邦:鑑画会に参加した頃、芳崖・雅邦・狩野友信の三人が酒を飲んでいると、禅についての話が始まった。その時芳崖は、「オイ雅邦さん、俺とお前は天狗ではないが、世間の奴の様に禅学の力で画は描かないぜ。なぜならば、これから二人で西洋各国の人々に頭を下げさせる様な神品を描こうと思って居るぢゃないか。全体世間の奴は禅学でもやるとね、河童の屁のような画を描いて禅味だの何のなのと云って喜んで居るが、それは茶人の玩具になるのさ(後略)」と言い、手を叩いて二人して大笑いしたという(狩野友信「雅邦翁瑣談」『日本美術』109号、明治41年(1908年)3月)。こうした逸話から、両者を芸術の上でも同士であり、日本画の革新運動を進めた二人の姿を見て取ることが出来る。


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橋本雅邦の鶴の作品も幾度か本ブログに投稿しました。下記の作品、二作品であろうかと思います。

鶴 橋本雅邦筆
紙本水墨軸装 共箱 軸先蒔絵 
全体サイズ:横377*1385 画サイズ:横276*縦606




旭鶴 橋本雅邦筆
絹本水墨淡彩共箱入 川合玉堂鑑定書付 
画サイズ:横160*縦273




明治期の両雄の「鶴」の作品を並べて愉しむのも、小品といえどもちょっと贅沢ではありませんか


鶴の作品をみるともうすぐ正月という思いにはやりますね。




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