夜噺骨董談義

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呂公一睡図 寺崎廣業筆 明治33年(1890年) その134

2024-08-19 00:01:00 | 掛け軸
本日は寺崎廣業の初期の佳作と思われる作品の紹介です。どうも「一睡の夢」は正確には「一炊夢」とのことらしい・・。



呂公一睡図 寺崎廣業筆 明治33年(1890年) その134
絹本水墨軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1975*横497 画サイズ:縦1060*横363

 

題名には「呂公一睡図」とありますが、「一睡」は正しくは「一炊」のことのようです。



「一炊夢」という逸話は「唐の盧生が、身を立てるために楚国へ向かう途中、趙の都邯鄲(かんたん)で道士呂翁から枕を借りて眠り、夢に栄枯盛衰を体験するが、目覚めてみるとたきかけの粟飯(あわめし)がまだたき上がってもいないほどわずかの時間にすぎなかった。」という、沈既済の「枕中記」の故事から) 人生の栄華のはかないたとえのようです。他には「黄粱(こうりょう)の夢  盧生の夢 邯鄲の夢枕」と称されます。

*「一炊夢」はしばしば「一睡の夢」と誤用されることがあったらしいです。

**「呂公」は「道士呂翁」のことか? それとも呂公という別人かは不明です。



栄華を極めても一時の夢の如し・・。



上昇志向に人生を費やすより、もっと有効な人生の過ごし方がある・・。



枕が描かれていないので、前述の故事との関連が正しいかどうかは解りかねます。



寺崎廣業の初期の佳作と言っていいでしょう。このような佳作の作品は寺崎廣業では市場に出るのも稀になってきました。



誂えは非常に丁寧に作られています。現在ではこのような腕の良い指物師による掛け軸の収納箱を作っている人は非常に少ないようです。



明治25年邨田丹陵の娘「菅子」と寺崎廣業は結婚し、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられます。よって「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定されます。本作品は落款から1,900年(明治33年)7月の描かれた作品です。

この頃には寺崎廣業の活動としては、1898年(明治31年)に東京美術学校助教授に迎えられ、翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去っています。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと寺崎廣業もこれに参加しています。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾っています。 

  

*落款にある「三条家次」(訂正)は新潟県三条に関連か? 詳細は不明ですが、寺崎廣業は生涯を通して信州によく出かけています。秋田から新潟まで旅行したのかな?

 

当時は横山大観と並び称せられた画家ですが、今ではあまり知る人も少なくなりました。当方の蒐集対象としている郷里出身の画家「寺崎廣業」ですが、やはりいい作品を描いています。





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