夜噺骨董談義

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猛之図(親子虎) 大橋翠石筆 その11

2023-03-31 00:01:00 | 掛け軸
本日紹介する作品は久方ぶりに大橋翠石の虎を描いた作品です。本ブログでも紹介したように大橋翠石は虎の作品以外に猫や獅子、狸、羊といった動物の作品がありますが、やはり大橋翠石の真骨頂は虎を描いた作品でしょうね。



猛之図(親子虎) 大橋翠石筆 その11
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱二重箱 
全体サイズ:横660*縦2180 画サイズ:横500*縦1230

 

本ブログにてもう何度も紹介していますが、改めまして大橋翠石の画歴は下記のとおりです。

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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。

父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。その後、独学をして写生画派に転向する。動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品を制作した。内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。

神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。

神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻とされる。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。

虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。

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当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたそうです。ちなみに本作品は大阪方面からの入手です。



*本作品は大橋翠石の最盛期である「須磨様式」の属する作品で、なかなか人気のある作品群で、最盛期の制作期間の作品は制作に時間を要することから作品も少なく高価なこともあり入手しづらい作品群です。

一般的に大橋翠石の画の変遷は下記のように整理されています。

青年期から初期 
南画画法によって虎の縞で形を作り描いている。(輪郭線を描かない)毛書きは白黒で描かれているために全体には薄く白っぽく見える。背景がない。 

中間期 
墨で縞を描くのは変わらないが、地肌に黄色と金で毛書きをし腹の部分は胡粉で白い毛書きがされてる。全体には黄色っぽく見える。背景は少ない。 

晩年期 
虎に赤い綿毛が下に塗ってある上に金で毛書きが施されており、全体に赤っぽく見える。この当時に描かれたものは「樹間之虎」「月下之虎」「山嶽之虎」など背景があり、樹木や岩山や笹などの描写は洋画的雰囲気がある。 



最晩年 
地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。

やはり最盛期の作品は労力を費やすため、最晩年には描き込みが省略されたのでしょう。

*本作品はこの頃の作で須磨様式とされる後半以降の作でしょう。最晩年に近い作と思われます。

 

制作時期の伴って落款も変遷しています。

点石翠石 - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで 

この初期の頃の作は人気が出てきた頃で多くの作品が遺されています。

翠石 - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年)-1922年(大正11年) 

翠石 - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年)-1940年(昭和15年) 

糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある。3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20)    

他に落款して「翠石生」・「即現」・「鉄拐山民」などがある。

**上記の分類では「晩年期」である「糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある」という楽観でしょう。よって3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20)」の頃と推定されます。
 


子供の虎の描き方が稚拙に見えた方には真作とは思えないかも知れません。当方でも最初は疑ってかかりましたから・・。



落款、印章は共箱共々全く違和感はありませんし、押印や書体もあります。描写の仕方も須磨様式後半そのものです。



もともと子供の虎は大橋翠石は苦手と思われます。以外にうまく描くときもあれば、稚拙に見えるときもありますね。可愛らしさを表現しようという意識があったかもしれませんが、それは最晩年の猫を描いた作品に反映されているようです。



地肌に赤、金で毛書きがされ、最晩年には毛書きの量も少しずつ控えめになってきます。写真の画像ではうまく伝わりませんが、これほど見事な毛描きの作品は大橋翠石の作品でも稀有な作品です。



ちなみに大橋翠石の虎の贋作には「点翠石」と呼ばれる落款の時代からその少し後の頃に多いようです。須磨様式の模倣は高度な技術ゆえにかなり難しいのでしょう。

当方の他の所蔵作品は展覧会に出品を依頼されてて出展予定でしたが、コロナ禍の理由で主催である関西近県の作品主体のみで開催されました。その展覧会は画集となって発刊されています。



共箱や作品中の書体や印章は下記のとおりです。

  

作品の収納箱は二重箱となっています。



初期に比して晩年の作品はいい表具・・・??



近々には大橋翠石の主たる作品を展示室に飾って愉しみたいと思っています。













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