土佐のくじらです。
前回記事では、源頼朝の大局観について述べました。
今回は、頼朝と弟義経との、有名な対立と悲劇の要因について私見を述べます。
結局のところ、この二人が突出する偉大な才能を持ち、そしてそれが、全く違う分野の才能であった・・・ということが要因だと思います。
兄頼朝の才能は、政治的構想力です。
その面が、超一級なのです。
後の室町幕府や江戸幕府なども、頼朝の統治の延長線上にあり、頼朝システムは明治までの約700年続くビジョンであったわけですね。
頼朝は、それまでの歴史上前例のなかった、朝廷を無視しての政治、武士階級のみを対象とした統治を考えていたのです。
それは、それまでの既存政治のある京の都から、離れている方がやりやすいのですね。
ですから、拠点が鎌倉なのです。
そしてそれは、実現直前までは、恐らく誰にもわからなかったはずですし、相談もしていなかったでしょう。
事前に守護地頭システムなどを漏らせば、貴族階級から邪魔が入ってしまうからです。
しかし頼朝は、戦・・・という面では、普通レベルの武将であったと思います。
一方義経は、戦の天才でした。
また後述しますが、有名な平家との戦いである「一の谷の戦い」や「屋島の戦い」は、極少数で巨大な相手の本拠地を攻めるものであり、最終決戦である壇ノ浦の戦いも、圧倒的な不利な形勢からの一発逆転劇でした。
これらは、天才義経でなければ勝てない戦いでした。
壇ノ浦の戦いの後義経は、京に留まりますが、これは軍人の現場感覚であれば、これは至極正しい判断であると思います。
平家討伐の有名な戦いは、極少数の戦力で大軍を負かしたものであるならば、義経が京都を離れ鎌倉に帰還すれば、京が再び奪われる危険性が高いのです。
討伐した平家は、家門の主力だけ・・・でした。
今で言うならば、国会議員の旧勢力は全員落選させたけど、地方には県議会議員レベルで旧勢力が残っている状態なのですね。
ですから義経の感覚ならば、京に留まり時間稼ぎをしている内に、兄頼朝には京に来て欲しかっただろうと私は思うのです。
そして義経と関わりの深い奥州藤原氏と連携し、日本全国をいち早く武装化を・・・と、天才軍人である義経は考えたはずです。
一の谷や屋島などは、義経以外、誰も思いつくことができない少人数による奇襲ですので、頼朝同様、他の部下たちには相談などしていないはずです。
頼朝も義経も、本心を秘めるタイプのはずです。
結局頼朝は、京には来ませんでした。
頼朝ビジョンであれば、京に近づきすぎると、平家と同様自らの貴族化を招く恐れがあるからです。
その点で、義経が官位を受けたことが、頼朝には許せなかったはずです。
頼朝は、朝廷から官位を受けた者を鎌倉に入れませんでした。
官位を受けた者とは、すなわち貴族を意味します。
頼朝は、強い平家を弱体化させた、武家の貴族化を恐れていたのです。
義経には、そこは理解できなかっただろうと思います。
兄頼朝は、「京で政治をするはずだ。」と思っていただろうからです。
兄が京に来るならば、人脈を作っておいた方が良いです。
そのためには、どうしても当時は、官位が必要でしたし、事実上断れませんでした。
恐らく大きな大局観では、頼朝と義経は同じものを持っていたはずです。
義経も平家時代の京で育ち、大陸との貿易で栄えた奥州藤原氏で青年期を迎えました。
いずれも大陸の動乱(モンゴルの台頭)の情報は得ていたはずですし、そのための武士の世(日本の武装化)の必要性を認識していたはずです。
そのためには、貴族化し弱体化した平家が邪魔なことも。
そして驚くべきことに、義経ビジョンであるならば、後の元寇は、朝鮮半島レベルで防ぐことも可能なのですね。
元寇の脅威の歴史、そのものがなかった可能性すらあるのです。
ただ義経は、戦の天才性では歴史的存在ですが、政治的発想では、時代的制約の中にあったはずです。
まさか幕府という、武士限定の統治機関を開くとは、その時点では誰も、思うことすらできなかったはずなのです。
日本で唯一、頼朝だけが考えていたからです。
一方頼朝は、政治的構想力は超一級ですが、戦に関しては普通レベルでした。
義経の動きは、源氏や東国武士の貴族化を招き、更には、「西国と奥州とで、関東(頼朝)を挟み撃ちにする気か?」と疑ったやも知れません。
ともあれ頼朝と義経の対立は、共に比類なき突出した才能の二人が、その違う才能をお互いが理解し、信じ切れなかったことから起こった悲劇だと、今の私には思えるのです。
(続く)
土佐のくじらです。
征夷大将軍と言えば、後の室町幕府の足利将軍、そして江戸幕府の徳川将軍など、全国の支配者のイメージがありますが、
正式には官職・・・つまり、朝廷が与える職種の一つであり、今で言うならば、防衛大臣か自衛隊の幕僚長ポストでしかありません。
その証拠に、初代征夷大将軍の、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、一人の将軍でしかありません。
しかし頼朝以降、征夷大将軍=実質上の日本国王というポストに立ち、武士政権というものが日本に長く定着する元となっております。
後の足利将軍も徳川将軍も、この頼朝の前例があればこそ、将軍=実質的な日本国王になれたのです。
それは、古来の日本人は全員農民だった・・・という、当時の職業区分の当たり前がそうさせているのですね。
農民が、実際に武具を手に取り、護衛をしたり、戦に出た姿が武士だったのです。
つまり、武士・・・というのは、そういう身分・・・ではなくて、当時の一般ピープルこそが武士なのです。
普段の日常では、農作業をしていて、いざ合戦になると武具を持って駆けつけるのが、当時の武士の姿ですから、今で言えば、日常的には各自の仕事をしており、時折政治活動をしたり、政治に興味を持っていて、時折意見を言ったりするレベルの市民が、当時の武士階級に当たると思っていただければ良いのですね。
武士=農民=一般ピープルですから、武士が天下を治める形である当時の社会というのは、以外ですが結構、民主的な社会なのですね。
さて、征夷大将軍は天皇より委譲されていますので、戦という名目があれば絶対権力者です。
”戦に備える”という名目であれば、あくまで”その分野に関して”であれば、何でもできる立場・・・です。
すなわち、攘夷の元、朝敵と戦をする権限と、武士の誰を取り立て、誰をどこに配置するかと言う権限が、征夷大将軍にはあるわけです。
実質上の権限は、実はこれだけです。
源頼朝は、このたった2つの権限を、それまでの歴史にない、統治の原理として使うわけです。
それはまず、
全国を警護する目的で、配下の御家人を地方に配置します。
これが”守護”と呼ばれるものです。
今で言うと自衛隊の、地方への部隊配置・・・みたいな感じですね。
そして、全国の農地を警護する目的で、御家人を”地頭”として地方に送ります。
今で言うところの警察官ですね。
頼朝の偉いところ凄いところは、この地頭に、徴税権、つまり税を取り立てる権限を与えたことです。
決して、税を使う権限・・・ではありません。
取った税は、国司や荘園主に送り届ける義務がありました。
税を取り立てる権限ですから、警察官である地頭には、税務署の仕事もさせたわけですね。
なぜそれが可能かというと、武士=農民ですけど、農民=武士だからです。
当時の農家は=武士ですから、農家=武士の土地を担保している将軍頼朝には、構造上逆らえなかったのですね。
武士は将軍には逆らえませんので、税金の取立ても命じられればするし、農民も御家人が税の取立てに来れば、応じざるを得ないのです。
しかし地方の農民=武士も、それまでは、遠くの国司や、荘園主に年貢を届けていましたから、その手間も省けて、一石二鳥でした。
今では、各地方都市レベルで税務署がありますが、それを毎年、東京の国税局本庁に届けていたら大変ですよね。
その税の届出業務を、地頭が代行したのです。
(これで頼朝の旗揚げ時の公約、「都に年貢を、納めに行かなくて良くする。」も達成しております。)
そういった、現場での実際の税の流れの中に、頼朝配下の御家人である”守護・地頭”を入れることで、実質的に地方の国司や荘園主も、頼朝の意向を無視できなくなったのですね。
なぜなら、国司や荘園主といった旧勢力からすれば、生活費(税)を届てくれるのは、頼朝の配下の武将(地頭)だからです(笑)。
現代で言えば、銀行に当たるかも知れませんね。
銀行には、自己資本というのは存在しません。
全て我々の預貯金を資本としていますから、銀行自体は金を稼いでいません。
しかし、運転資金など各種借り入れには、銀行からの借金が必要ですから、銀行は威張っていますよね。
また、JA(旧農協)みたいな感じでしょうかね。
JAは、農作物の販路を握っていますし、実質上農家は、資金の借り入れや種や肥料の買い付け先を、JAに絞られています。
JA自体は農作物を生産はしていませんが、その販路などを握ることで莫大な権限を、実質上握っております。
またいつか書きたいとは思っておりますが、TPPの問題なども、本質論的に言えば、結局はJA問題となってしまいます。
そのように、権限=富と考えるならば、その富の流通経路を握ることで、実質的な権限を握ってしまえるわけです。
これを頼朝は、日本国内の統治の仕組みとし、配下の武士の権限を強めつつ全国統治し、そして武士社会を実質的なものにしてしまったのです。
いやはや、恐るべき政治家であります(笑)。
組織とか世の中の仕組みというのを、知り尽くしている政治家ですよね。
この、御家人と守護地頭システムの構築で、日本は一気に武士の世の中になり、そして着実に日本の歴史に、前例として定着していく訳です。
(続く)
こんにちは。
ひねくれ歴史のツアーコンダクター、土佐のくじらです。(^^)
さて、戦の天才、源義経の超人的な働きにより、平家は滅ぼされ、何やカンやで鎌倉時代に至りました。
源平合戦の大ヒーロー、坂本龍馬と人気を二分する人気者の源義経を、時系列的には書かなければならないのですが、義経の活躍と悲劇と数多い謎は、実はここを通らないと解けないのですね。
ですから、後日に記事にさせてください。
義経ファンの方、本当にごめんなさいね。m(_)m
1192年に源頼朝は、征夷大将軍に任命されます。
この有名な、「いい国つくろう、鎌倉幕府」の語呂で有名な年号ですが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立はそれより前の1185年と、ここ最近では言われているようです。
まぁ、どっちでも良いですけどね。(笑)
征夷大将軍は官職です。
ですから、征夷大将軍を任命する権限と、解任する権限は京の朝廷にあります。
その他将軍職には、征東大将軍とか、征西大将軍とか、本当は色々あるのですが、これもややこしいので割愛しますね(笑)。
征夷大将軍の役割とは、読んで字のごとく、
夷敵(朝敵)を征する将軍の長・・・です。
朝廷(天皇)のために戦う軍人の長=武士の統領ですね。
武士の長、しかも朝廷のお墨付きとあらば、これは”天皇の意”ですので、”武士”は、絶対に征夷大将軍には逆らえません。
しかしそれだけなら、今で言うところの、自衛隊の幕僚長クラスにあたる訳ですよね。
初代征夷大将軍である、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、そういう立場の人生でした。
そして頼朝は幕府・・・というのを、鎌倉に築きます。
幕府というのは要するに、武士を統治するため・・・だけの組織です。
(実際は当時、幕府という名前はありませんでしたが、ややこしいので(笑)鎌倉幕府というネーミングで書いて参ります。)
幕府はあくまで、武士の組織ですので、征夷大将軍は朝廷の政治には口出しできません。
あくまで武士に対してのみ、絶対権力者なのです。
防衛大臣や自衛隊幕僚長の命令には、自衛隊員は従いますが、他の組織に属する、たとえば財務官僚などが命令に従う必要はありませんよね。
これと同じ理屈です。
征夷大将軍は、朝廷の政治には口出ししませんから、朝廷の政治を取り仕切った、かつての平家を知る当時の公家たちはきっと、
「おお、鎌倉殿(源頼朝)は、まこと欲がないのう。おーほほほほほほ。」と思ったに違いありません。(笑)
その朝廷の、防衛大臣か幕僚長でしかないはずの征夷大将軍が、なぜその後の日本で、実質上の国王のごとき立場に立てたのでしょうか?
とても不思議に思いませんか?
おおっとこれは、ミステリーですね。(笑)
これは、当時の職業区分を知らないと、絶対に理解不可能です。
何度か記事に書きましたが、古来の日本人は全員農民でした。
そして農民が、実際に武具を手に取り、護衛をしたり戦に出た姿が、【武士】だったのですね。
現代を生きる我々は、つい、武士・・・という身分史観で考えがちなんですが、その考え方は、後の豊臣秀吉以降の職業観、身分観なのです。
話は戻りますが征夷大将軍は、戦における権限の全てを、天皇より委譲されていますので、
”戦に備える”という名目であれば・・・、あくまで、「その分野に関して」であれば、天皇の名の下に、何でもできる立場・・・である訳です。
要は、
①攘夷の元、朝敵に対して戦をする権限
と、
②どの武士を取り立て、誰をどこに配置するかと言う権限
が、征夷大将軍にはあるわけですね。
(朝敵を決定する権限も、①に付随して実質的には存在します。)
征夷大将軍の実質上の権限は、実はこの2つだけなのですね。
今の内閣総理大臣が、選挙をする解散権と、大臣任命権があるのと同じ・・・とも言えますね。
しかし権限は、武士に限定されるのが、征夷大将軍です。
あくまで防衛大臣や幕僚長権限が、自衛隊内に限定されるのと同じです。
しかしこの、たった2つの権限を、巧みに全国統治の原理へと導き、実質的に武士が、日本国内を仕切る仕組みを始めたのが、源頼朝なのです。
(続く)
土佐のくじらです。
平清盛を統領にした平家は、わずか20年余りで、ほぼ全国を傘下に収めました。
その平家の政治パワーの根源は、当時の中国(宋)との貿易による富の力であることは、これまで述べてきた通りです。
当時の土地本位制度、つまり、農作物による物々交換経済と、銭を使った流通経済では、得られる富は桁違いに大きかったのです。
その貿易のため、清盛は福原の港(今の神戸港の原型)などの港や、屋島や厳島神社などの中継点の整備や、瀬戸内海の海賊を味方につける施策など、瀬戸内海の制海権も確固たるものにしております。
制海権を現代に訳するならば、マスコミに当たると私は考えます。
制海権は海の流通や、軍船を自由に運ぶものです。
船での移動は、大量の軍隊と武器を、陸路より大量に、しかも圧倒的に早く目的地まで届けることが出来ます。
スピードもさることながら、陸路ならば、敵をなぎ倒して行かなければなりませんが、海路ならばそれもありません。
陸路は現代的に言えば、口コミや地道な政治活動でしょう。
海路はそれよりも早く、圧倒的な部数や視聴数で現地に届く性格上、現代的に言えばマスコミに相当すると考えます。
後発の清盛には、伝統的な貴族が持つ、広大な所領は余りありません。
瀬戸内の支配を基板に、現代的に言えば、マスコミを懐柔させ、それで得られる富により政権基盤を確立したのです。
当時の日本においては、こういう支配体型は初めてのことであり、そのインパクトも大きかったのです。
ではなぜ、平家は清盛の晩年から衰退し、滅ぶに至ったのでしょうか?
それは一つには、貿易相手国である、宋の衰退ともリンクしていると思います。
宋の国力は衰え、満州の女真族(にょしんぞく)に、北方の領土を奪われ、金王朝をつくられてしまいます。
日本と同じ農耕民族でもある宋も、日本と同様に寒冷化は押し寄せていたのでしょう。
農作物の余り取れない北方では、従来の地元民族(女真族=満州人)が勢力をを盛り返しました。
そして、宋のつながりの深かった平家も、宋の衰退に伴う形で、パワーの源泉である貿易の富も、少なくなってきたと思います。
そして一番の原因は、
平家が、貴族になろうとしかから ・・・ではないかと、私は考えています。
当時の日本では、政治は貴族しか参画できませんでしたから、平清盛は貴族になろうと努力し、
当時、最も貴族らしいのが平家・・・と、皇家から言われるくらいにまでなりました。
農民出身者の集まりであった幕末の新撰組が、頑張って武士らしくあろうと努力したように。
また、徴兵制度のもと、一般市民で構成された明治以降の日本軍が、武士(もののふ)の心を重視したように、
平家も貴族たらんと努力した結果、貴族の模範となるくらい貴族化してしまいました。
それによって平家は・・・戦にとても弱くなってしまったのです。
特に、後の木曾義仲や源義経のような、ゲリラ戦や騎馬戦など、縦横無尽な戦いを仕掛けてられる戦には、とても弱かったのです。
当時の戦は、武士通しの1対1の対戦形式でした。
それが、古来から当時までの、戦のしきたりでした。
ですから、知名度と銭の力を駆使して、強い武将を集める古来の戦であれば、平家は無敵でした。
しかし、古来からのしきたりを無視するようなタイプの戦では、とても弱かったのです。
木曾義仲は、それ自体知らなかった可能性がありますし、
義経も知らなかったか、あるいは無視した可能性があります。
私は平家が滅んでくれて、本当に良かったと思っております。
なぜなら、先に書いたように、
寒冷化したことで農作物の収穫が減り、争い事が増えていたのは、日本国内だけではなかったからです。
当時、アジア大陸においては、後に世界から【蒼き狼】と恐れられる人物が産声をあげておりました。
モンゴルのチンギスハーン(ジンギスカン)です。
最も騎馬民族らしい、縦横無尽な戦いをする、この世界王者の出誕を前に、最も貴族らしい貴族と化した平家が滅んでくれたのは、やはり日本が神様に愛された国であるからだと、私は考えざるをえません。
とにもかくにも、貴族化した平家では、後に訪れる元寇に、太刀打ちなどできかったに相違ないからです。
(続く)
土佐のくじらです。
歴史は史実です。
つまり文章を研究するのが歴史です。
ですので、書こうと思えばいくらでも書けるし、事実ではないことも書くことができるのが歴史です。
平安末期の政治権力者平清盛は、悪者のイメージで日本人には定着しているようです。
しかし、日本人の平清盛観の根源にあるのは、「平家物語」ですよね。
平家物語は、後の鎌倉期に、琵琶法師と呼ばれる盲目の人たちが、全国を行脚して、琵琶という楽器を鳴らしながら歌って広めたものです。
現代で言えば、街角で歌うストリートミュージシャンのような感じでしょうか。
一見すると自然発祥的・・・に、見えなくもないですが、同じ様相、同じ楽器、同じ歌を、ほぼ同時に全国で展開するストリートミュージシャンがいたとすれば、それはどこかのプロダクションが、ある一定の企画と予算のもとで行う、何かのキャンペーンであることは間違いないですよね。
そう、後の鎌倉幕府が、亡くなった平清盛に対して行った、全国アンチキャンペーンが、我々が知っている「平家物語」の真相だと私は考えています。
琵琶法師が対象にしていたのは、皇族や公家ではなく、一般庶民です。
ですから、この幕府キャンペーンが意味するものは、「平清盛という権力者は、一般庶民レベルで人気があった。」ということですね。
一般庶民レベルで恨まれている権力者であれば、わざわざ予算を使って、アンチキャンペーンをする意味などないからです。
この平家物語に代表される、歴史のイメージ戦略は、戦前日本悪玉論も同じだと思ってください。
あれだけ執拗なプロパガンタには、それが必要とされる、逆の何かがあるのです。
それが歴史の読み方です。
さて、この当時の武士は農家ですが、天皇一族から武士になった、由緒正しき一族もおります。
それが平氏(桓武系)や、源氏(清和系)ですね。
これらの名家は、皇族や公家たちや、それらの所領を警護をしていたと思われます。
今で言うなら、国家公安みたいな感じでしょうかね。
平氏や源氏は、平安時代末期には、勢力争いのための軍事行動を行います。
1156年の保元の乱と、1159年の平治の乱です。
今で言うところの、党内の権力抗争みたいなものですし、新党ブームみたいなものでしょうかね。
そして最終的に、その権力抗争に勝ち抜いたのが平氏であり、その統領が平清盛です。
平清盛は武士ですので、元来の貴族出身ではありません。
(天皇由来の由緒正しき武士ですので、ギリギリ下級貴族とも言えますが。)
当時の朝廷内の政治は、貴族でなければできなかったので、平清盛は貴族になろうとしたのですね。
それは結構大変だったようです。
朝廷内では、教養やシキタリがものを言いますのでね。
清盛は歌や踊り、その他、高級官僚接待や、経済面での抱きこみ工作・・・様々な政治的手腕を駆使し、太政大臣(今の総理大臣)にまで上り詰めます。
そして、遣唐使を廃止して以降、日本は鎖国状態に入っていたのですが、宋との貿易を再開し、平氏は巨万の富を蓄えます。
当時の多くの人たちの富の元は、農地から収穫される農作物ですが、平家は貿易による富(銭)を、主な収入としていました。
今の神戸港のもととなる、福原の港を造りましたが、これらは今の貿易立国日本の原型とも言えます。
平清盛の政治は、後の源氏の政策より進んでいたところもありますし、
清盛の造った広島の厳島神社などを見ても、彼の芸術的なセンスが、とても優れていることが分かります。
平清盛は、とても信仰心が篤かったのですね。
信仰心のない政治家には、芸術センスの高い遺物を残せません。
ソ連時代のロシア、そして現代の中朝に、芸術性がないのと同じです。
平清盛は、現代にも通じる開明的な政治思想を持った、とても優れた政治家ではなかったかと思いますね。
後の源平合戦などでは、源氏が対する平家は巨大な全国組織ですが、平家時代というのは20年ほどなのですね。
たった20年余りで清盛は、全国をほぼ平家一色で塗りつぶしたのですから、ものすごい政治力です。
私は平清盛を政治家として、とても尊敬しております。
源頼朝も政敵の子ながら、結局命を助けていますし、義経などは義理の子として、一時期養育までしています。
これなどは、清盛の慈悲深い一面なのではないでしょうか?
源頼朝はその後、挙兵しますけど、決して源氏の再興を掲げての挙兵ではありませんし、
驚くべきことに、打倒平氏を掲げての挙兵でもありません。平氏討伐も結局、清盛の死後に行っています。
頼朝も義経も、清盛には義理を感じていたのではないでしょうか?
ということで、平清盛はとてもいい人だったと、私は考えています。
(続く)