道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~(三)孝親の法論

2014-06-13 22:17:02 | 達磨寶巻

(三)孝親の法論       

「恭敬して誠に虔(つつ)しむのが尊親であり、名利が成就することが栄親であり、晨昏(あさゆう)に親を顧みることが敬親であり、老いを労わり養い奉ることが養親であり、一度呼ばれて百諾するのが即ち順親である。これは、後天倫常(道徳)の道である。これらを通じて、一字の順の字で貫かれている。何をもって親の恩に報いればよいか。これには肉体的な面と、霊的な面とがある。

肉体的な面は小さい孝行であり、目前の孝行である。勿論これには可能と不可能の状態があるから、誰しも出来るとは限らない。汝のように今親と離れている現状では、この小さな孝行の一部すら実行不可能である。

 もう一つの孝行は霊的の孝行で、親の霊を地獄の苦しみから脱離させ生死の輪廻を解脱させ、永遠の極楽浄土へ帰らせて逍遥自在を得させることである。これが最大の孝行であり、永遠の孝行でもある。これは誰しも行なおうと思えば出来るし、窮極的な孝の道を全うし、親の生養の恩に完全に報答できるし、これを九玄七祖(きゅうげんしちそ。九代の子孫と七代の祖先)に及ぼすこともできる。汝は、そのように嘆き悲しむことはない。眼前の孝養を尽くせなくとも、永遠の孝道を全うすればよい」

「それには、どのようにすればよいのですか」

「道を求め正法を得、返本還原の道を修め行じ、内功外功(ないこうげこう)の行を完成すれば玄祖を超抜でき、初めて両親の限りない恩に報いることができるのである。これを全うし得た人を、全一孝子と言うべきである。今汝は道人と詐(いつわ)っているが、道を成す故を知らない。親を放って遠くに遊び、徒に終日を過しているが、恐らく父母がどんなに待ち望んでいるかを知らないであろう。今細かく示し明かすから、よく聞くがよい」

 宗横は伏して、大師の言葉を一句も洩らすまいと聞き入っていました。

「親が孩児を大きく撫養するのは、将来悲しい喪送(野辺の送り)の孝人となって欲しいためである。どうして道人の心は、鉄に似て堅いと思うことができようか。両親を放り別れて外地に行くことは児として別に問題は無いが、児を思う親心は箭(矢)で射られるようなものである。或いは食なくして子の腹の飢えるのを憂い、或いは着るものが無く子の身を遮ることが出来ないことを怕れ、異郷において踏脚(放浪)するのに投奔(みをよせ)る所の無いのを憂い、眼で見るのは生人(みしらぬひと)ばかり、誰か親(親戚)でもいるであろうか。紅日(陽)が西に沈むのを見れば、その悲しみに凄惨を添える。悲しみは切々として房門(家)を守り、三春(旧暦の一月・二月・三月の三か月間を指して言う)来て花開くとも、鶯(ウグイス)の声は恨みを帯びる。九秋(秋の九十日。三か月間のこと)に菊開くとも雁の声は悲しみに鳴き、夏至に子規(ホトトギス)が草原に啼き、冬が来れば斑馬(しまうま)の鳴く声は蕭々(しょうしょう)として悲しく、睡覚の時には三更(午前零時から午前二時の間)の夢に児が帰るのを見て吟々と笑う。然れども忽然として夢から覚め児を探しても見ることが出来ず、涙を含んで月星を望み、枕辺に傷心の涙を流し尽し、堂前に両眼の睛(たま)を穿つほどに子を望む。ある時は書を傳え、信(たより)を送って子の心が転(かえ)るのを望む。面(かお)を會(あ)わす人、みな親(親戚)のないのを憐れみ、この心誰に問いかけるべきであろうか。神に求め佛を拝し、より多くの保佑を願い、孩児が家門に転(かえ)ることだけを願うのである。ある時は籤を引き、卜(うらない)に問うたとて霊験が応じることもなく、香を献じて願いが許されるのを乞うても信音(たより)がなく、両親と離別しても猶自分で可(よ)しとし、波のように漂流して放蕩し定め寄る処がない。

道衣、道帽猶厳たりと言っても、どうして三清(精・気・神)と五行を知っていようか。山へ朝(まい)り廟を拝み、四方に乞い、眞を滅して假りと化し、迷いの人を假り哄す。三災八難があっても顧みる人なく、同伴の道友に幾人の眞の人があろうか。或いは菴堂に住み、或いは寺院に巣食い、徒に經巻を誦え、光陰の時を過す。只、仙を修めて道を悟ることを説くが、どうして根元は尋ねる処の無いことを知ろうか。我は今、一言をもって道破する。どうして虚(いつわ)りの様を装い、虚りの言葉を聞く必要があろうか。佛法僧の三寶に皈依するとは、自分の精・気・神がこれである。感応も慈悲も忠恕も、三教は原来同じ一心である。仙の道は、もと人の道から起ったものである。西方(極楽界)は、全て忠孝の人である。斎を持し、戒を守って大道を成じ、祖宗と諸親を超抜することが肝要である。今我は、汝に一つ一つ説いて聞かせたが、これはひとえに汝の身を苦淪から救い出そうとするものである。只今は、聖凡の全てを道破した。今汝が、我が身を師として拝んだことを無駄にしてはならない」

 宗横は師の温かい言葉と情愛を身内に深く感じて、後悔と感激に打たれ、哭泣(こくきゅう)に堪えず。暫くした後、大師に向かって

「今後は一心一意、邪を改め正に帰し、正等正覚(しょうとうしょうかく)を修め悟り、これによって両親生養の恩に報答いたしたいと存じます」

 ここに宗横は、改めて大師に向かい

「どうぞ、私に正法をお傳え下さい」

と哀求しました。

 続く


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