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世界文化遺産を訪ねて/新羅千年の誕生と滅亡(韓国・慶州)

2009-01-27 18:01:37 | 旅、歴史、文化
        蘿井(史跡第245号)、楊山斎、鮑石亭址(史跡第1号)

 慶州市の中心から南へ約4kmの南山地区に、新羅千年の壮大な歴史が始った小さな井戸と、1km程の近くにはその歴史が閉じることになった、曲水宴を楽しんだ別宮の跡があります。
 一般観光客はあまり足を延ばしませんが、新羅の歴史を知る上では非常に興味深い場所です。


■蘿井( 나정・ナジョン)(史跡第245号)

 この地域がまだ六つの村(新羅六部)で成っていた紀元前69年、蘿井という井戸のそばで白馬が残した大きな卵から男の子が生まれました。これこそが、新羅の初代王、朴赫居世(パクヒョッキョセ)です。
 同じくして、近くの閼英井(アリョンジョン)という井戸のそばでは、鶏龍の左脇から女の子が生まれました。これが、新羅の初代王妃閼英夫人です。(共に伝説ですが)
 六人の村長たちは、聖児として大切に育てられた二人が13歳になった紀元前57年、朴赫居世を国王に、閼英を王妃に据え、国号を徐那伐(ソラボル)と定めました。これが新羅千年の壮大な歴史の始まりとなったのです。
 現在、蘿井は2002年から文化財整備事業が行われており、松の老木が立つ雑草の台地には案内看板と由緒が刻まれた石碑があるだけです。


■楊山斎(양산제・ヤンサンジェ)

 蘿井から少し東へ入ると、六部村長の霊位を祀る祠堂「楊山斎」があります。
 新羅国を建国させた六部村長はその功労を称えられ、新羅第3代儒理王から「六部」の名称を改めてそれぞれが姓を授かりました。
 楊山(ヤンサン)村には「李氏」、高墟(コホ)村には「崔氏」、大樹(デス)村には「孫氏」、珍支(チンヂ)村には「鄭氏」、加利(カリ)村には「裴氏」、高耶(コヤ)村には「薛氏」という姓で、2千年後の今日まで続くそれぞれの姓の始祖になるのです。
▼慶州市の市章にある「六つの星」は、この6村を表現しています。
      

■鮑石亭址(포석정지・ポソクジョンジ)(史跡第1号)

 新羅の別宮が建てられ、王族や貴族たちが優雅な遊び「流觴曲水宴(りゅうしょうきょくすいえん)」を楽しんだ所です。
 この水を流した全長10m程の石溝の形が鮑に似ていたことから、鮑石亭と呼ばれています。
 南山渓谷からの清らかな水を引き入れ、石溝を流れる水に酒杯を浮かべ、自分の前に流れ来るまでに詩を作り、杯の酒を飲み遊んだところです。
栄華を極めていた新羅王朝も、第55代国王景哀王が即位した924年頃は、高麗、後百済の勢力に挟まれ衰退の途をたどっていました。
 927年、景哀王は鮑石亭で宴に興じている最中、後百済の甄萱(キョンフォン)に奇襲を受け殺され、新羅が滅亡することになったのです。そして、第56代国王に即位した敬順王は、高麗に国土を譲渡することを決め、935年新羅王朝は千年の幕を閉じたのでした。

 千年の壮大な歴史ドラマが、井戸という水で始まり、曲水宴という水で終る。そして、それぞれの舞台は南山の麓のごく近い場所にある。曲水宴に興じた水溝が残るだけの鮑石亭址に立ち、不思議な思いに駆られました。



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世界文化遺産を訪ねて/大陵苑・天馬塚 (韓国・慶州)

2009-01-24 00:22:24 | 旅、歴史、文化
   ▲新羅王朝時代の王や貴族が眠る

大陵苑 대릉원

 この大陵苑は、世界文化遺産慶州歴史遺跡地区市内中心部にあり、新羅王朝時代3世紀頃からの王や貴族が眠る大規模な古墳群です。
 約41.5haの広大な敷地に23基の古墳がありますが、更に地下に埋もれている古墳まで含めると約200基と云われています。
 これらの中で有名なのは天馬塚と味鄒王陵、皇南大塚です。

■天馬塚(史跡第40号) 천마총

   ▲天馬図が画かれている白樺の皮で作られた馬具(泥よけ)
 天馬塚(155号古墳)は1973年の発掘調査により、5~6世紀に作られた積石木槨墳であることが判明し、金冠、装身具、武器、馬具など11,526点の遺物が出土しました。
 この時、天馬図が画かれた白樺の皮で作られた馬具(泥よけ)が見つかったことから天馬塚と名付けられました。
 大陵苑の中で唯一内部が公開されており、出土品の一部のレプリカも展示されています。それらからは、当時の新羅人の華やかで優れた文化的水準を窺い知ることができます。

■味鄒王陵(史跡第175号) 미추왕릉

 大陵苑の中で唯一被葬者が判っているのが、この新羅第13代味鄒王の陵です。
 味鄒王は、鶏林で誕生した金氏の始祖・金閼智の7世孫で、金氏王統の初代の王です。
 陵の前には、魂が留まる場所と云う意味の魂遊石が置かれています。

■皇南大塚 황남대총

 皇南大塚(98号古墳)は、二つの墳墓が繋がる夫婦合葬用の双子墳で、東西が80m、南北が120m、高さが25mと巨大な陵で、新羅古墳の中で最も大きな陵です。
 1975年に発掘され、北陵は女性、南陵は男性の墓で、北陵からは金冠、首飾り、腕輪などの装身具数千点が、南陵からは武器類が主で2万5千余点の遺物が発掘されています。

            <아래를 클릭하면 寫眞이 보입니다.>


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世界文化遺産を訪ねて/五陵・崇徳殿(韓国・慶州)

2009-01-23 15:20:03 | 旅、歴史、文化
 ■五陵(史跡第172号) 오릉

 1,000年の長い間栄えた新羅、その初期の朴氏王族の陵墓が慶州平野の南方にあります。
 新羅の始祖「朴赫居世王」とその妃である「閼英王妃」、第2代「南解王」、第3代「儒理王」、第5代「婆娑王」の5人の陵墓です。
 封墳の高さは約10m、直径は約20m、表面は飾りのない円形古墳になっています。

 朴氏については、新羅の始祖「朴赫居世王」は卵から生まれ、その卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「バク(=朴)」を姓としたと伝えられています。


 ■崇徳殿(文化財資料 第254号) 숭덕전

 崇徳殿は五陵の東側にあり、朴赫居世王の祭祀を行う建物です。外には王と崇徳殿の由来が刻まれた碑と、閼英王妃誕生伝説の閼英井(井戸)の跡があります。

 閼英井のそばに現われた鶏龍の左脇から女の子が誕生し、その子が新羅の始祖「朴赫居世王」の妃「閼英王妃」となったと伝えられています。
 朴赫居世王と閼英王妃が国を建てたのは紀元前57年、これが1,000年間栄えた新羅の始まりです。国の名前は「鶏林、斯羅、斯盧」などと呼ばれましたが、後に「新羅」と定められました。また徐羅伐(ソラバル)とも呼ばれましたが、これがソウルの語源です。



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世界文化遺産を訪ねて/新羅王朝栄華の跡-1

2009-01-22 14:39:55 | 旅、歴史、文化
      雁鴨池・瞻星台・鶏林・半月城・石氷庫(韓国・慶州)


■雁鴨池
 
 新羅第30代文武王により、647年に築造された離宮跡です。
 当時広大な庭園には、珍しい花が咲き、鳥が放され舟が浮かび、1,000人を収容する臨海殿では、国賓をもてなす宴会が催されたとのことです。
 発掘調査で収集された約3万点の遺物は、近くの国立慶州博物館に保管されています。


■瞻星台(国宝第31号)

 新羅第27代善徳女王の時代に建造された東洋最古の天文台です。
 星の観測により、農耕暦や国の統治、占星術が行われたとのことです。
 高さは9.1mの塔は、陰暦の1年の日数と同じ361個の石が、綿密に積み上げられています。


■鶏林(史跡第19号)

 慶州金氏の始祖、金閼智の誕生伝説の地です。
 甲高い鶏が鳴声に近づくと、大樹から下がった金の箱。それを開くと、 
美しい男の赤ちゃん、それが金氏の始祖・金閼智であったとの伝説です。
 日本では竹とか桃から赤ちゃんが生れますが、韓国では金の箱とか金の卵です。


■半月城

 約千年続いた新羅王朝の王宮跡です。
 今では、華麗で荘厳な姿は窺えない。半月状の大きな台地が広がっているだけです。
 春には桜、秋にはコスモスの名所となっています。


■石氷庫(宝物第66号)

 半月城に、朝鮮時代に造られた石氷庫が残っています。
 氷が貴重な時代、冬に氷を保存して1年中使った“天然の冷蔵庫”です。
 石室は広く奥行き19m、横幅6m、高さ5.45mで、約1,000個の石が精巧に組まれています。水は奥の排水口へ流れ、天井には3個の換気口があります。
 入口の石には「崇禎紀元後再辛酉秋八月移基改築」と刻まれ、朝鮮時代に移基改築したことが判ります。
 貴重な氷は、病人の解熱に、食料の保存に、時には死体の保管に使われたとのことです。



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世界文化遺産を訪ねて/芬皇寺・皇龍寺址(韓国・慶州)

2009-01-20 23:59:45 | 旅、歴史、文化
■芬皇寺
 
 ▲芬皇寺模塼石塔(国宝30号)
 安山岩を煉瓦のようにして積み上げたもので、本来は七層か九層の塔であったとのこと。

 芬皇寺は善女王が634年に創建した寺で、高僧元暁・慈蔵が修道した寺刹として知られています。かつての大伽藍は、三層の模塼石塔と三匹の護国竜の伝説がある井戸『三竜変魚井』、藥師如来立像が安置されている法堂普光殿が残っているだけです。


■皇龍寺址
 
 ▲三尊像の礎石 かつては、この上に金銅三尊像が安置されていた。

 皇龍寺址は、芬皇寺の南側に隣接する広大な寺址です。
 553年真興王が宮闕(きゅうけつ)建設を寺院に替えて、皇龍寺と名付けました。
 その後、善女王が百済の匠人阿非知を招請して、645年に巨大な九層木塔を完成させましたが、1238年蒙古軍の侵略によって焼失しました。
 新羅仏教の中心として栄えた新羅最大の、そして東洋最大の巨刹は、広大な原野に礎石が残っているだけです。




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世界文化遺産を訪ねて/佛国寺(韓国・慶州)

2009-01-20 00:05:22 | 旅、歴史、文化
 仏国寺は吐含(トハム)山の山麓に位置する大韓仏教曹渓宗第11教区の本寺です。
 創建は法興王の時代西暦528年で、当時は華厳佛国寺とも呼ばれていました。その後、約千年に亙り増築、改修を繰り返して来ましたが、1593年日本による朝鮮侵略戦争「壬辰倭乱」により、木造建物全部が消失しました。
 現在の仏国寺は朝鮮時代後期、及び1973年に復元されたもので、多宝塔(国宝 20号)、釋迦塔(国宝 21号)、蓮華橋・七宝橋(国宝 22号)、青雲橋・白雲橋(国宝 23号)、金銅毘盧遮那仏坐像(国宝 26号)、金銅阿彌陀如來坐像(国宝 27号)、舍利塔(宝物 61号) などの多くの貴重な文化財が残っています。
 韓国を代表する名刹で、慶州を訪れる誰しもが必ず寄る場所となっています。



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世界文化遺産を訪ねて/石窟庵 (韓国・慶州)

2009-01-18 08:59:43 | 旅、歴史、文化
 ▲主室(円室)に座る本尊の釈迦如来像

 吐含山中腹にある国宝第24号の石窟寺院。花崗岩をドーム状に組み上げて、上に土をかぶせた人工石窟寺院です。
 新羅751年景徳王時代に金大城が造り始め、774年恵恭王時代に完成、何と24年間を費やしています。この石窟庵は、佛国寺と同時に建設されていますが、金大城は現世の父母のために佛国寺を、前世の父母のために石窟庵を建てたと伝えられています。
 石窟は、手前を前室、奥が主室、間の通路を扉道と呼ばれます。本尊仏は主室に置かれ、石窟内の壁面には十一面観世音菩薩像、十大弟子像、菩薩像、天部像、四天王像、仁王像、八部神衆像と29体の仏像彫刻が立っています。
 20世紀始めに発見され、日本の植民地時代に修復工事が行われましたが、本来の石窟の姿には復元できず、内部は湿気でカビが発生するようになったため、現在は前室の前にガラス壁を設置して、内部を人工的に換気をしています。そのため、内部はガラス越しに観覧できるだけです。
 石窟庵に至る階段の横に陳列されている石材は、新羅時代のもので修復工事の際に余ったものです。「用途不明」との説明には、残念な思いがします。




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年取りの魚

2008-12-19 06:11:30 | 旅、歴史、文化
 ▲ 年神様にお供えする頭と尾

 年取りには、鮭を食べるか(「鮭文化圏」)? 鰤を食べるか(「鰤文化圏」)? 以前、この話題で大いに盛り上がり、そのことがある書籍に載ったことを思い出しました。
 結論は、当地域は越後から来る鮭を食べる「鮭文化圏」と越中富山から来る鰤を食べる「鰤文化圏」の接点で両者が混在しているということになりましたが、この文化圏の違いは、祝儀膳や不祝儀膳にまで及んでいることに驚いたものでした。

 鮭と鰤の違いは別にして、その頭と尾の部分を年神様にお供えすることは共通で、今でもそのしきたりは多くの家に残っています。
 「新たな一年が全て(頭から尾まで)良い年でありますように。」との説と、「今年の終り(尾)に感謝し、新たな年(頭)が良い年になりますように。」との説があるようですが、私が神様ならば、『真中の美味しそうな部分を供えなさい。』と言いたいのですが・・・

 アメリカ発の金融危機が世界経済を不況に陥れ、我々の日々の生活にまで悪影響を及ぼしています。政治も行き当り場当たりで頼りになりません。是非、来年は明るさが見えて欲しいものです。

信濃33番札所巡り-その2

2008-11-21 22:49:56 | 旅、歴史、文化
 20.nov.2008 
     1番 佛眼山 法善寺(麻績村上町)、
     2番 楊柳山 宗善寺(麻績村上町)、
     3番 笹命山 岩井堂(筑北村坂井古司)、
     15番 富蔵山 岩殿寺(筑北村坂北別所)、
     17番 福寿山 関昌寺(筑北村本城田屋)、
     20番 鷲峰山 長安寺(松本市四賀会田)

 
 ▲ 第一番法善寺大屋住職を囲んでの記念撮影

 先月25日に続き、本日は第2日目。天候は予報に反して概ね晴れ、しかし寒い一日でした。


○第一番 佛眼山 法善寺(麻績村上町)
曹洞宗 御本尊 聖観世音菩薩

 古くは善光寺街道の麻績宿として栄えた地にあり、信濃三十三番札所霊場のほぼ中央に位置しています。寺の歴史は永く、延喜時代に法相宗岩龍山西谷寺と称した奈良興福寺系の古刹として創建され、その後廃寺になり、そして明応元年(1492年)に佛眼山法善寺として再興し現在に至っています。その間二度の火災に遭い、現在の本堂は約170年前に、山門は約400年前に建てられ、その後幾度も手を加えられているとのことです。大きな本堂屋根、本堂内部や山門の造りは、札所一番にふさわしく威厳があります。

 
 ▲ 札所一番としての威厳を感じさせる境内

 
 ▲ 御本尊の聖観世音菩薩像

 
 ▲ 二度の大火から逃れた山門

 
 ▲ 葺替で降ろされた本堂屋根の鬼瓦
  文政12年(1829年)に作られた実物。大きさは約3m

 
 ▲ 大屋住職さんから、釈迦涅槃図のお話をして頂きました。


○第二番 楊柳山 宗善寺(麻績村上町)無住(朱印は麻績村上町第1番札所法善寺)
元曹洞宗 御本尊 十一面観世音菩薩

 麻績宿本陣の臼井家により創建されましたが、明治2年に廃仏希釈により廃寺、本尊はその後も臼井家によって守られて来ました。平成12年に本尊の木造十一面観世音菩薩立像が村宝に指定され、平成14年10月に新たに地に建立された収蔵庫に移されました。
 第1番札所 法善寺より250mほど登った松林の高台に建立された収蔵庫は、美しい六角の観音堂となっており、中には臼井家十三代当主中兵衛定信が刻んだ木彫りの五百羅漢の一部、十数体の羅漢像も祀られています。

 
 ▲ 町を見下ろす高台に建つ観音堂

 
 ▲ 御本尊の十一面観世音菩薩立像と羅漢像

 
 ▲ 観音堂から数十メートル上ると、月と伝説の山、姨捨山(冠着山)が美しく見えます

 
 ▲ 十三代当主中兵衛定信が屋敷内に建てた六角堂


○第三番 笹命山 岩井堂(筑北村坂井古司)無住(朱印は宮下憲一宅)
宗派不明 御本尊 馬頭観世音菩薩

 現在の堂は、500mほど西側の山裾から移ったといわれていりますが、開基は不明とのことです。
 源平の昔、源義経の家来佐藤継信の愛馬“磨墨(するすみ)”がこの地で急死し、村人がその供養をしたとのことで、堂内には磨墨の木像と歯が秘蔵されています。
 また、この観音様は別名「しりつみ観音」といわれ、8月9日の縁日では女性のお尻をつまんだり触っても良いとされています。

  
 ▲ 馬頭観世音を本尊とした岩井堂

 
 ▲ 御本尊の馬頭観世音菩薩

 
 ▲ 秘蔵の磨墨(するすみ)の木像と歯


○第十五番 富蔵山 岩殿寺(筑北村坂北別所)無住(朱印は筑北村坂北碩水寺)
天台宗 御本尊 馬頭観世音菩薩

 室町・鎌倉の時代に開基され、支院を有するほどの大寺であったとのことです。 近年火災で全焼し、その後再建はされましたが、以前の面影はなくなりました。
 仁熊の大日堂には秘仏である重要文化財の木造大日如来が安置されており、縁日には奉納花火や、屋台で賑わいます。奥ノ院である富蔵山山頂までは、徒歩で2時間位とのことです。
 また境内には、長野県宝の三所権現(神像)を祀ったお堂があります。この権現像は鎌倉時代に作られたもので、本格的神像彫刻としては他には類例の少ない貴重な尊像とのことです。

 
 ▲ 本堂と奉納馬像

 
 ▲ 修復された山門

 
 ▲ 参道沿いの大きな馬頭観世音


○第十七番 福寿山 関昌寺(筑北村本城田屋)無住(朱印は筑北村坂北碩水寺)
曹洞宗 御本尊 十一面観世音菩薩

 寺の開基は定かではありませんが、青柳氏がこの地の城主の時に祀ったと伝えられています。
 JR篠ノ井線が境内のすぐ脇を走るため、昔は蒸気機関車の煙から飛び火し、幾度も火災に遭っているとのことです。
 “一生まめの寺”ともいわれ、大豆一升をあげてお参りすると、一生まめに暮らせるといわれています。

 
 ▲ “一生まめの寺”ともいわれていました

 
 ▲ 境内のすぐ脇を電車が通っています


○第二十番 鷲峰山 長安寺(松本市四賀会田)無住(朱印は松本市内田第27番札所牛伏寺)
臨済宗妙心派 御本尊 千手観世音菩薩

 善光寺街道会田宿にあり、行基菩薩自ら千手観音を刻み安置したことが始まりといわれています。本堂は荒れ果てた姿となっています。
 観音堂は1.5kmほど北の奇岩怪岩の岩山にあり、周囲には多くの石仏が祀られ、岩壁には磨崖仏が彫られてます。岩井堂との別名があり、古くからの修行の地であったとのことです。

 
 ▲ 岩井堂の別名をもつ観音堂

 
 ▲ 御本尊の千手観世音菩薩

 
 ▲ 岩井堂へ登る岩道は鎖場が続きます

 
 ▲ 近くからは会田富士(虚空蔵山1,139m)が美しく見えます


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信濃33番札所巡り-その1

2008-10-26 06:24:12 | 旅、歴史、文化
  25.oct.2008  13番 恵日山 開眼寺(千曲市中原)、
           14番 姨捨山 長楽寺(千曲市八幡)、
           6番  洗淵山 観竜寺(千曲市森大峰)、
           5番 倉科山 妙音寺(千曲市倉科竹尾)、
           4番 大里山 風雲庵(長野市松代清野宮村)、
           11番 仏智山 明真寺 清滝観音堂(長野市松代東条菅間)、
           7番 虫歌山 桑台院(長野市松代豊栄)

 
 ▲ 長楽寺での記念撮影 

 札所霊場巡りは、秩父、坂東、西国、四国、信濃など全国にあります。
 麻績の歴史を学ぶ会では、その信濃三十三番札所霊場巡りをすることになりました。今日はその初日、23名が参加、会の顧問宮下先生のご案内で七ヵ寺を巡りました。天候にも恵まれ、岡部会長の事前の綿密な調整により朱印記帳も予定通り順調にでき、有意義で楽しい一日となりました。今後も続けて、三十三番全てを巡ることを目指しています。



○第十三番 恵日山 開眼寺(千曲市中原)
臨済宗妙心派 御本尊 聖観世音菩薩(秘仏)
 観音堂は善光寺に向かい、北を向いています。
 昭和35年に前住職が亡くなってから無住となっていましたが、現在は柴田住職が着任し様々な活動が行われています。境内や観音堂も整然としており、訪れる人を爽快な気持にしてくれます。
 厄除け観音として有名ですが、雨乞いや縁結びとしてもご利益があるとのこと。

 

 
 ▲ 御本尊は秘仏で年に一度、八月三日のお施餓鬼の日にご開帳されるとのこと。

 
 ▲ 1691年建立時に描かれたという77枚の天井絵は見事です。



○第十四番 姨捨山 長楽寺(千曲市八幡)
天台宗 御本尊 聖観世音菩薩(秘仏)
 月の名所、姨捨伝説で知られる寺。
 本堂には西国、坂東、秩父の百体観音があります。

 

 

 
 ▲ 「姨岩」の脇に立つ観音堂

 
 ▲ 奥は月見堂。古くから数多くの文人・墨客が訪れ、境内にはたくさんの句碑・歌碑が並んでいます。

 
 ▲松尾芭蕉は1688年『更科紀行』の旅で、「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」という句を詠みましたが、後の1769年に加舎白雄によって「芭蕉翁面影塚」として建立されました。



○第六番 洗淵山 観竜寺(千曲市森大峰) 無住(朱印は稲荷山の長雲寺)
真言宗智山派 御本尊 千手観世音菩薩
 立派な萱葺き屋根の観音堂があります。
 御本尊は暗くて見えません。
 県指定や市指定の仏像が多くありますが、木造聖観音菩薩立像と木造不動明王立像は盗難に遭い、現在行方が解らないままとのことです。

 

 
 ▲ ホトトギスが可憐な花をつけていました。



○第五番 倉科山 妙音寺(千曲市倉科竹尾) 無住(朱印は近くの小出宅)
曹洞宗 御本尊 十一面観世音菩薩
 真田家と縁の寺。明治初年の廃仏毀釈で帰農した後に再興されとのことで、建物は農家住宅そのものの感じです。

 

 



○第四番 大里山 風雲庵(長野市松代清野宮村) 無住(朱印は近くの宮沢宅)
元黄檗宗 御本尊 聖観世音菩薩
 武田信玄が、上杉謙信との川中島合戦の戦勝を祈願して建立したとのこと。厨子の扉には、その武田の四ツ割菱の紋章があります。
 また、観音様が信玄公の夢枕に立って、戦術を授けたという伝説があります。
 御本尊や信玄の位牌は見えませんでした。

 

 

 
 ▲ 昔は尼寺だったことを語る墓石



○第十一番 仏智山 明真寺 清滝観音堂(長野市松代東条菅間) 無住(朱印は松代東寺尾福徳寺)
真言宗 御本尊 千手観世音菩薩

 

 

 ▼ 1kmほど上った所に阿弥陀堂があり、その裏には清滝という美しい滝ります。紅葉の時期は見事とのこと。
 

 

 
 ▲ 美しい柱状節理の岸壁



○第七番 虫歌山 桑台院(長野市松代豊栄) 無住(朱印は松代東寺尾福徳寺)
元真言宗豊山派 御本尊 千手観世音菩薩(秘仏)
 養蚕の守り神。聖武天皇の頃、僧行基が1本の桑の木から千手観音像を三体造り、ここ桑台院と11番札所明真寺と16番札所清水寺に安置したとのこと。

 

 
 ▲ 御本尊は秘仏で、年3回、縁日にご開帳されるとのこと。


風穴と石氷庫

2008-08-26 21:33:34 | 旅、歴史、文化
    ▲ 蚕種を長期保存した風穴の入口(内側の扉部)

  
    ▲ 6月というのに、天井や床には氷が残っている。

 麻績村の野口地籍に風穴跡があります。四阿屋山北斜面の岩の隙間を通り、地下水脈で冷やされ下りて来る冷気を取り入れた天然の冷蔵庫です。外気が入らないように、四方の壁は石積で屋根が掛けられ、入口は二重扉となっています。風穴内の温度は春には3~4度で氷が残り、夏でも10度程度と非常に涼しい。
 1868年に造られたというこの風穴は、地域の養蚕業を大きく発展させました。蚕種を風穴で低温貯蔵して孵化時期を遅らせることにより、飼育期間は固定されず飼育回数が増えたのです。
 現在ならワイン庫などのグルメ思考になりますが、風穴はこの地域の産業を大きく発展させたのです。

 一方、韓国には石氷庫(ソッピンゴ)という大型冷蔵庫があります。韓国内にはこの石氷庫跡が各地に残っているようですが、慶州市の新羅時代の王宮“月城”跡には、規模が大きく技法も優れた朝鮮時代のものが残っています。
 石と土を断熱材とした石室に、当時は貴重だった天然の氷を冬に貯蔵して、一年中使ったとのことです。夏の冷菓など上流階級のグルメに必要だったのでしょう。
 韓国の人気ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」でよく見た宮廷料理を支えたり、またその発展にも大きく貢献したことでしょう。

 野口地籍の風穴も慶州市の石氷庫も、人間の智恵が自然を活用したのです。しかも、今日でいう「エコ」です。
 石油製品が全て高騰する今、このような自然活用エコにもっと目を向けても良いのではないでしょうか。

(追記)
 石氷庫に保存された氷は、夏の流行病の熱を下げたり、死体の腐敗を遅らせたりするのにも使われたそうです。
 王宮で使われた立派なものから、集落単位で建造された小さなものまで、そこに保存された貴重な氷は、人々の生活や文化の向上に大きな役割を果たしてきたことでしょう。

    ▼ 規模と技法で傑作といわれる慶州市月城跡の石氷庫
  

    ▼ 広い石氷庫の内部。石組みの技術もすごい!
  

信州への第三の「塩の道」-3

2008-07-03 14:02:02 | 旅、歴史、文化

 夢二と出会う

 早川道を訪ねる旅の途中で「相馬御風記念館」に立ち寄りました。

 その展示室の一角で、我が愛しき夢二に会うことができました。
 それは、竹久夢二の相馬昌治(御風)宛の葉書。
 明治43年8月8日付銚子消印、1銭5厘の葉書の文面は

    『御ぶさた。
     私ハまた古都をおはれてここへ引越しました。
     よほど海になれました。
     波とともに流れることの出来るといふことが
     まづ第一に私の仕事でした、
     然し波は決して人間なんかと流れるのを好まないと見えます。
     海を知るに随て恐れが増します。
     遊びにいらつしや。』

 もしや、もしやと思い、家に帰って早速調べました。やはりそうでした!
 あの「宵待草」の詩想を生むことになった、あの時の銚子からの葉書でした。

 明治43年8月、夢二は1年前に離婚した他万喜(たまき)と2歳の長男虹之助と共に、千葉県銚子市海鹿(あしか)島へ避暑、一夏を過ごしています。
 夢二はこの時に、秋田美人の「お島さん(本名 長谷川 賢)」に恋をします。
 そして、1年後の夏に忘れられない「お島さん」との再会を期して、銚子を訪れますが会えませんでした。その時の思慕の気持が後の、一世を風靡した三行詩の「宵待草」となっていくのです。

    『待てど 暮らせど 来ぬ人を
     宵待草の やるせなさ
     今宵は 月も出ぬぞいな』

 この宵待草のモデルとなった「お島さん」と最初に出会った、その時の海鹿島から相馬昌治へ宛てた葉書でありました。
 葉書には、売れっ子最盛期にある心の葛藤と、自身に迫る思想弾圧を書いているのでしょうが、結びには小石川に住む相馬に遊びに来いとあり、二人が親しい間柄であったことが窺えるものでした。

 「塩の道」からは外れましたが、私には夢二に会えた幸せな旅となりました。

       
 他万喜が虹之助の手を取り海鹿島海岸を歩く様子なのだろうか。【 ▲ 「かに」の絵葉書 tt蔵 】

             
             【 ▲ 「宵待草」の絵葉書 tt蔵 】

《お願い》
 相馬昌治宛ての葉書文面の解釈と、「かに」の説明は私の偏見によるものです。宵待草の詩想が生まれたとされる場所についても色々な説があります。ご高見をお寄せ下さい。( takano_nagano@yahoo.co.jp )
 

信州への第三の「塩の道」-2

2008-06-30 12:27:09 | 旅、歴史、文化
            静かな雲台寺

<御前山雲台寺>
 昔、街道では多くの物資が牛馬によって運ばれました。その牛馬の安全祈願の寺として賑わった寺、「御前山雲台(苔)寺」を訪ねました。
 無住の雲台寺、そして寺へ続く街道周辺の民家の佇まいが、長い歴史を感じさせてくれました。

     
       牛馬の供養塔

     
       善光寺三尊像

          
          クリンソウ

     
       美しい民家




信州への第三の「塩の道」-1

2008-06-30 11:21:59 | 旅、歴史、文化
       焼山富士見峠 - 信州へと続いた第三の「塩の道」


 日本海から信州への塩の道は、①千国街道ルート(糸魚川~大町~松本)、②北国街道ルート(高田~柏原~長野)が知られていますが、もう一つの早川ルート(糸魚川市梶屋敷~笹倉~焼山富士見峠~笹ヶ峰~奥裾花~立屋~牧ノ島~聖峠~麻績)の存在について研究者の間で調査されています。
 麻績の歴史を学ぶ会では宮下健司先生にご案内を頂き、その第3のルート早川道を6月28日~29日に亘り、起点側である糸魚川市梶屋敷から焼山富士見峠の麓まで訪れました。

<早川谷焼山温泉~焼山展望台>

 今年の焼山は例年に無く雪が多く、夏山開きは7月に入ってからとのことでした。
 地元の歴史研究者のご案内を頂き、午後1時早川谷焼山温泉を出発。特別に最奥地まで車で入らせて頂き、そこから細い登山道を歩きました。
 焼山は噴火以来4km以内の立ち入りが長く禁止されておりましたが、それが解除され入山できる夏山は今年が2年目とのことでした。入山規制が長かった為か、春から初夏のかけての花々が足元まで迫って咲き誇り、疲れを覚えないまま展望台に到着することができました。【花々は別述】
 雲が垂れ込めた天候でしたので、展望台から焼山を見ることはできませんでしたが、信州へと続いた第三の「塩の道」、早川道の焼山富士見峠ははっきりと見ることができました。

     
       早川谷

     
       焼山登山道入口ゲート

     
       多くの残雪

           
             タニウツギ

           
             シラネアオイ


焼山登山道の花 2008.06.28

2008-06-30 00:57:08 | 旅、歴史、文化
たくさんの花たちが迎えてくれました。(写真 №.01~№.32)


01-タニウツギ


02-タニウツギとウワミズザクラ


03-シラネアオイ


04-シラネアオイ群生


05-ムシカリ/オオカメノキ


06-ムシカリ/オオカメノキの人面


07-ホウチャクソウ


08-イワカガミ


09-カラマツソウ


10-ツバメオモト


11-ツバメオモト


12-サンカヨウ


13-クロバナエンレイソウ


14-クロバナエンレイソウ


15-ズタヤクシュ


16-ズタヤクシュ


17-ショウジョウバカマ


18-ショウジョウバカマ


19-フデリンドウ


20-ムラサキヤシオツツジ


21-ムラサキヤシオツツジ


22-ヒメモチ


23-ヒメモチ


24-ユキザサ


25-マイヅルソウ


26-エゾアジサイ


27-エゾアジサイ


28-ホタルブクロ


29-ホタルブクロ


30-クロズミ/ベニズル/ギョウジャカズラ


31-クロズミ/ベニズル/ギョウジャカズラ


32-タチツボスミレ