小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

幻の空き地(2)

2010-01-19 13:45:47 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

 

謎の空き地の周りの塔頭をみてみますと

まず右端の大雄院 尾張藩の石川光忠 (いしこ みつただ)の父の菩提(ぼだい)寺。

その横の 

養徳院は 織田信長の乳母(養徳院)の菩提寺 池田輝政の祖母であり、輝政は信長に 甥として かわいがられていたそうだ。

その左隣の海福院は 福島正則自身が夏の陣で、大坂城の落城後 石川貞清 (いしこ さだきよ)(石川光忠の叔父. )に妙心寺の土地を譲ってもらい 死者の冥福を祈るため建立した。

空き地の左の蟠桃院(はんとういん)は、前田玄以の開基、開祖は一宙東黙(いっちゅうとうもく)。 

空き地の右側の桂春院は もとは見性院といって 1598年に織田信忠の次男、秀則が創建した寺。

秀則の兄が 織田秀信 です。この塔頭の配置を見ていると

 関が原合戦の 岐阜城の攻防戦が頭をよぎる。

東軍の池田輝政(養徳院)

福島正則(海福院) が 

西軍の秀信の岐阜城を攻めた。

そうですね、福島正則は 岐阜城の陥落後に 自分の今までの恩賞と引き換えに、秀信の助命を家康に嘆願した。

秀信は清洲会議にて織田家の後継者として選ばれておりその意味においてあくまで、<WBR>秀吉は 後見人として政権を担っていたにすぎないハズ

稲葉一鉄の嫡男 の貞通(智勝院)も初め 秀信の命により石川貞清 (いしこ さだきよ). の守る犬山城救援に出陣していたが、秀信の城が落城後 福島からの強い薦めもあり、東軍に 鞍替えした。

もともと 輝政も正則も 織田家に仕える者 本来なら秀信の生粋の家臣。 

秀信の死で 織田氏本宗家は断絶したことになるが どこで死んだか正確にはわからない。

 この空き地には 秀信(幼名 三法師)の影が映ります。

 

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