若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

文字さえ書ければ、ポエット
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日日を豊かに遊び心

今年は、ノーマルの極みで!(Mount Fuji)

2014-01-01 | PhotosーNoriko Wako
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。





昨年の元旦は、アブノーマル(ウンを運ぶ)から、キックオフでしたが、今年は実に日本の元旦を象徴するに一番ふさわしいモノを選びました。
昨年世界遺産にヤットコサでなったことですし。(世界遺産の為に1992年から準備を始めたそうです)
前にも書きましたが、富士山を作品にすることは全く考えたことはありません。単なるブログ用の写真で通俗そのものの富士です。
年に何度かその佇まいをま近に見ますと、その美しさもさることながら、『霊峰富士』と言われるだけあって、タダモノでない気配を感じさせることは確かだと思いました。
富士自体は、そこに何時でもあるのですが、それを取り囲む周り、太陽、雲、空の色と時代の変遷に応じて自在にその姿を変容させるのです。
舞台装置のような安物のカラクリ的感覚でなく、どんな富士でも品格があり荘厳なのです。
夏の黒富士でも、冠富士でも、白い雪帽子をかぶった富士でも、春霞の優しい富士でも、初秋の夕陽に染まった強い赤富士でも、今頃の5合目位まで雪を頂いたもっとも富士らしい美しい富士でも
このようなのですから、美術家の思い入れなんか意味ないと思ってしまうのですが、、、。
人間の表現を超えた存在ということなのでしょうか。
だから美術家が挑戦するのでしょうか。

北斎は天才です。
富士を一つのオブジェとして自由自在に扱い、「富嶽三十六景」を残しています。
単なる風景としてでもなく、北斎ならではのありえない斬新な構図の中に富士を配し、日常生活の中で富士を楽しんでいる、戯れているような感覚です。こういう感覚をあの時代に獲得していたわけですから、古今東西を観てもこれに並び称される美術家はいません。

広重は秀才です。
富士を風景として描いている「不二三十六景」がにあります。
富士を風景として描いているということは、北斎の才能に比べると凡庸というか普通の感覚なのです。

大観も秀才です。
明治から昭和にかけての日本画の大家ですから、日本画の一つの題材として四季折々の富士の様々な容態を描いています。また戦争を鼓舞する神国日本の象徴として日の丸(太陽と)と富士を並列して描いたのもあります。
大観が描いた富士の中に、戦後直ぐに描いた大観の内面を表したような厳しい辛さを感じさせる富士が在ります。
その絵が一番好きです。

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