若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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第1回現代批評講座 『知的所有論』 高橋一行 

2013-04-03 | 時事問題
この本の前書きの初っ端で、
<本書は、徹底的に、ヘーゲル論理学にこだわっている。>と入り
ロック、カント、ルソー、スピノザ、ときて、そのページの最後に
<ジジェクによって、私はヘーゲルから解放され、そうしてヘーゲルをもっと積極的に活用しょうという気になった。
ジジェクが導きの糸である。>

ワーこれは大変!!!
哲学の素養の片鱗もない私如きではお手上げ状態というものです。
ですが、ですが、不思議なことに、この超ビッグネームである哲学者達の誰をも理解していない私なのですが、この『知的所有論』を全く読めないことはないのです。
私にとってはあまり興味のない分野のお勉強ですから、読んで理解するのにたいへん時間はかかることはかかりますが、、。
「伊達に年を取ってきていないな~」と感じるのです。
その昔、在野のヘーゲル研究者で、DMに推薦文を書いてくださった長谷川宏さんがリップサービスでしょうが、「食わず嫌いなんじゃないの、若生さんは理解できると思う」と言われたことを思い出しました。
でも今でも若生の頭では、無理無理無理ーーーーと思っています。何しろ、何を言っているのかイメージで理解しようと企てているのですから。

何故か、こんなわたくしが、御茶の水書房の橋本さんの強いお誘いで、「現代批評講座」の世話人の一人になってしまったのです。
笑ってください。自分だって場違いと重々承知しているのですから。

ですが、世話人の一人としていみじくも名を連ねたわけですから、たとえ門外漢であろうと、頑張るしかないと。
無謀にも美術家の観点からアプローチできることがあるやもしれぬとの思いがあるからです。

ジジェクには、『ヒッチコックによるラカン-映画的欲望の経済』という本があるので、それをとっかかりとして、またそれに加えて、内田樹の「映画の構造分析ーハリウッド映画で学べる現代思想」は何年か前に購入して少しは読んでいたのですがすっかり忘れていました。(凹)
この2冊から少しは理解できるかな~とイージーな私なのです。(笑)

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合評会のためのレジュメ      2013.3.19
                                 高橋一行

 ジジェクと熊野純彦に導かれてヘーゲルを読んで来た。ジジェクはラカンとヘーゲルを結び付け、熊野はレヴィナスとヘーゲルを併せて論じている。私は、ある雑誌で、次のように書いたことがある。つまり、(ラカンvs.ヘーゲル)vs.(レヴィナスvs.ヘーゲル)を読み解くことが必要だと。私は、しかし、今回の本で、ラカンとレヴィナスに対して、意識的に言及を避けて来た。この二人については、次の本、つまり、三部作の最後の本で扱う。

 現代思想は、基本的に、ヘーゲル批判として展開されて来たように思う。ここで現代思想とは、さしあたって、ラカンとレヴィナスの他に、フーコーやデリダなどを指している。彼らの主張は、ヘーゲルを近代哲学の完成者と考え、それをどう批判するかということを軸に繰り広げられて来たと私は考える。
 しかし、この20年位の間に、ジジェクやマラブーが現れ、彼らの主張は、ヘーゲル批判を最初に行ったのはヘーゲル自身である、または、ヘーゲルの中に、ヘーゲルを批判するものが見られるというものだ。それは私自身もずいぶん前から気付いていたけれども、そう言えずに、悩んでいたことなので、彼らの主張に出会ったときに、こんな風に言って良いのだと鼓舞された面もあり、また、先を越されたという思いもあった。この本は、そういう思いから出来ている。
また現代思想のもう一つの潮流は、ヴィットゲンシュタインやクワインなどの分析哲学であるが、彼らは、ヘーゲルをまったく無視するところから始まっていると私は考えて来た。しかしそれが、この10数年で、ずいぶんと変わった。彼ら分析哲学者(セラーズ、マクダウェル、ブランダム)が積極的にヘーゲルを評価し始めたのである。彼らのヘーゲル読解を吟味することで、ヘーゲルの豊かさが明らかになる。これも、次著で扱う。

 情報化時代の所有論を展開したい、つまり、ロックが、土地所有=農業を念頭に所有論を展開し、マルクスが、リンネル工場を例に出して所有論を書いているが、それを第三次産業中心の社会の中で、確認したいと思って、前著を書いた。
 そこで、知識=所有がポイントである。このことを、ロック、カント、ヘーゲルを使って、説明した。この、知識=所有は、単なるアナロジーではない。ヘーゲルの観念論において、このことは、核心である。しかし、ロック研究者、カント学者からは、まったく相手にされなかった。私は、あまりに、ヘーゲル的に、ロックとカントを読み込んでいたのだと思う。
今回は、ヘーゲル論理学しか使わない。そう決めて、全編、ヘーゲルの無限判断論を根拠に展開した。

概要
1章から3章までが、本論で、その後が各論である。

1章
ヘーゲルは、所有論を判断論であるとしている。それは肯定判断、否定判断、無限判断から成り立つ。無限判断は、否定の否定、つまり、否定判断の否定性を徹底させ、かつ肯定するものである。それは、ネグリの言う、私的所有、国有、コモンの三段階に対応するが、コモンにおいて、私的所有は徹底的に否定されると同時に、肯定される。ネグリには、このヘーゲルのダイナミズムがなく、そのために平板なものになっている(ネグリの『コモンウェルス』について、そのテーマはまさに情報化時代の所有論で、完全に私のものと重なる。しかし、結論は異なるので、そのことについても、次著で扱いたい)。
 知的所有を考えると、このことは明瞭である。私の知識を人に伝えれば、それは他者と共有されるが、私自身の所有であることもまた、一層強く自覚される。
 モノの所有においても、様々な技術が蓄積されて、それで価格が安くなった場合、その安くなった部分は、共有財産と見做して良く、しかし、そのモノは、それを購入した個人の私的所有でもある。ここに、前著で確認した、「個人的所有の再建」(平田清明)が、分かりやすく現れていると思う。
 しかも、さらに共有化を進めるべきであり、そのための具体策が、検討されて良いし、この後の第5章の議論は、その一つの試みである。それは同時に、その財(知的であれ、モノであれ)を、私的に所有するということと矛盾しない。
 さらにこのことを、ヘーゲルのタームで言えば、無限判断は、判断論のカテゴリーでありながら、すでに、推理論であるということになり、私的所有が、否定され、その否定が徹底されると同時に、肯定もされる。そして、そのことによって、所有を超えて、他者性が前面に出て来て、それが、社会構築の原理となり得るということである。
 物象化理論と、私の展開する推理論的所有論との違いで言えば、それは、私的所有の、否定の否定が、否定の徹底であると同時に、肯定でもあるということを、つまり私的所有の再建を、どこまで認めるかということにあると思う。ここで私は、敢えて、私的所有と個人所有を区別しない。私は本来的に、社会の中で規定されているからである。

2章
 アリストテレスの正義論は、配分的、矯正的、交換(貨幣)的正義の三つからなる。この三番目の正義論の意義を明らかにすべきである。昨今の正義論は、主として配分的正義を扱うが(とりわけロールズ)、情報化社会においては、第三の交換(貨幣)的正義が重要である。このことは、具体的には、第5章で展開される。つまり、この章は、第5章の前提となっている。

3章
 所有は交換であり、交換が主体を生む。この主体は、徹底的に他者のもとに曝されている。主体とはこのようなものであり、これが無限判断の論理である。マルクスの『資本論』は、この無限判断論の論理で成り立っている。ここで貨幣の必然的に生み出す矛盾の是正が求められる。以上が、この章の荒筋である。
主体をどう考えるかということが問題である。主体がどう成立するか。他者を自己の中に取り込んで、主体が成立するのか。つまりまず、主体があって、その主体は、他者を所有したいと思う。しばしば、ヘーゲルは、他者を自己内に取り込んでしまうと考えているかのように理解される。そういう面も確かにある。さしあたって、これを第一段階とする。しかし他者は所有できず、却って、他者は、自己を承認し、また自己は他者を承認し、そうして主体が成立する。そのように考えられる。これを第二段階としよう。
しかし最初に他者があり、他者は絶対で、主体は他者の下で成立し、そしてその他者に徹底的に曝されているものではないだろうか。そして、そのことを以って、主体化と言うのではないだろうか。
 フーコーなら、権力そのものが、主体を創り出し、その主体が権力批判をするということになるだろう。しかし、それは同時に、権力の抵抗の不可能性を意味する。主体は権力が作ったものだからだ。これに対して、私はしかし、権力が生み出した主体が、権力批判をすることに、何の問題もないと考える(このことは、ジジェクの近著(2012)が扱い、また、それを引用しつつ、大澤が『生権力の思想』(2013)で展開している。私もまた、次著で扱う)。同様に、他者が、また交換が主体を作るからと言って、その主体が無根拠だということではない。また、その主体が、交換過程の矛盾を是正する、変革主体であることにも、何の問題もない

4章
 ベーシック・インカム(以下BI)論者の多くは、労働の価値を認めない。しかし、これは、今日、労働が知的労働化したことを読み誤っていないか。

5章
 BI論者は、配分的正義に基づいて、税によって、BIを成立させようとしている。この考え方は、間違いではないが、不十分であり、交換(貨幣)的正義の考え方により、BIを実現させるべきである。
 交換的正義の重要性が指摘されることはあり、また、地域通貨の重要性について、多くの論考があるが、その具体的な可能性について、もっと論究されるべきである。
 さらに私は、前著で、バスケット貨幣の可能性について、言及している。ローカルな貨幣の役割について、ナショナルなレベルとトランスナショナルのレベルの両方から、考えるべきである。
6章
 普遍、特殊、個別の三段階は、肯定、否定、否定の否定の論理が使われる。民主主義、リベラリズム、革命論は、どれも普遍を求める論理であるが、そこには、ナショナリズムという特殊性が、蔑にされている。その特殊性の役割を再評価すべきである。
 個別は特殊を経なければ普遍に進めないし、特殊の限界を超えるという過程を経なければ、普遍に行かない。しかも、特殊は特殊で残るのである。つまり、普遍において、特殊の持つ否定性は、徹底されると考えるべきである。

7章
 ルソーの一般意志は、集合知であるという、東浩紀の論を受けて、それはヘーゲルの世論論の見られると考えたい。それは熟議の結果得られるものではなく、大衆の無意識の総体であり、それこそが、ヘーゲルが「理性の狡知」という時に考えられていたものである。ここで、主体とか、理性と言うのは、そういう意味においてしか成立しない。また、世論は、必ずしも、民意を正確に反映するものではなく、そこには齟齬が付きものだが、しかし、そこにしか、立法の正当性は求められない。

 今回は、ヘーゲルしか使わないと言っておいて、ここにルソーを使っている。こういうところで、思想史的文脈を無視して、アナロジーで話をつなげているという批判は覚悟の上である。ここでも私は、ヘーゲルから、ルソーを見ている。

8章
 ルソーの『社会契約論』は、一般意志論と、抽選による行政の長の選出という二本建てから成り立つが、ヘーゲルもまた、世論論と、君主=白痴論から成り立つ。代表者は、要は形式的に求められているだけであり、誰がやっても良い。
この章の結論は、しかし、前章の議論を前提にしている。私の結論は、立法においても、行政においても、代議制と直接民主制の統合と、専門家集団と素人集団の統合である。所有論で言えば、自律的所有と他律的所有の統合である。

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清家竜介さんからのコメントを受けて
 
 先のレジュメで、私が使った無限判断は、ヘーゲル「論理学」と『法哲学』のもので、それは、「私は、所有物を譲渡したので、その所有物の所有者ではない」というものである。その含意は、その所有物を譲渡できたのは、真にそれを所有していたからだ、とか、つまり、所有していないのに、所有しているというもので、さらには、私的所有は徹底的に否定されているのに、なお、私的所有しているという面も出て来る。
しかし、ここからもうひとつの、無限判断がでてくる。それは、肯定的に言い表したもので、「私は、譲渡した所有物の所有者である」というものである。それはジジェクが使う、ヘーゲルの『精神現象学』にある無限判断である。そこにおいて、所有者と所有物とは結び付いていない。しかしその結び付きのなさから、つまり交換(してしまったということ)から、社会が構築される。また、「所有はコモンだ」という判断を挙げても良い。そこで、私的所有性が徹底的に否定されているのだが、同時に同じく、結び付かないものが結び付き、しかしそこにこそ、社会構築の原理を見出すことができる。
ここから、等価交換は、無限判断である、つまり、「20エレのリンネルは、一着の上着である」などが出て来る。そして、この結び付かないものが、等価で結び付くために、そこに必然的に搾取や超過利潤が出て来るとジジェクは言う。交換は必然的にひずみを生む。
そこにネットワーク理論の知見が出て来る。膨大な量の情報の交換があると、大きな偏りが出て来るというものである。知的財産は、偏る。それは本来共有されているのに。また、単に、所有が偏るだけでなく、情報化社会においては、労働時間は短縮されるので、雇用がなくなり、しかし一方で、猛烈に忙しい人も出て来る。そういう労働の偏りも発生する。そういう社会のひずみを解消するには、配分的正義だけでは不十分で、第2章で展開した、交換的(貨幣的)正義が必要である。

フロアからのコメントを受けて

変革の主体の重要性が、私の主張である。それは古典的なもので、むしろ、この、主体性は、あまりにヘーゲル的であるとして、批判されるのが常である。しかし、私は、その主体が、他者性に晒されているもので、徹底的に受動的なもので、しかも根拠を持たないものであるということを前提にして、なお、その重要性を主張したいと思う。
それは私的所有を肯定し、所有する主体を肯定するものである。それは徹底的に否定されるのだが。
もうひとつは、アナーキズムは批判したいと思う。つまり、国家と貨幣が止揚されるというとき、それはいずれ、なくなると考えられていることに対して、反論したい。それらはなくならない。しかし、それらをそのまま認める、社会民主主義に、私は与しない。可能なことは、多様な貨幣、多様な集団の自生を促すこと、そしてそれを推進する、変革主体の役割を確認することが必要である。