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臓器移植、脳死についての私なりの思索

2009-06-30 | 時事問題
脳死とは、身体が温かく、手足が自発的に動き、妊娠出産さえ可能な状態である。

脳死について問題になるのは:

①医学的な生命現象の理解と、
②身体全体による人間の理解との根本的な差異である。

①では、人間の本質は意識活動であり、脳が死んだら意識はなくなるから、人間は死んだも同然だと言う考えである。

果たしてそのように無味乾燥に人間の死を割り切れるものなのか?

医師による脳死論は、「人」の全存在では無くて器官の一部の「脳」の中身の事ばかり書いているが、私たちが実感するのは、脳の中身ではなくて、脳死になった「人」と言うことである。
すなわち、脳と言う器官(臓器提供に役立つ=身体の道具化)ではなく、脳死直前まで歴史性や関係性を持っていた「人」の事である。

森岡正博氏は、「脳死が人の死かどうか」と問うことは無意味であるとし、以下の3つの問いに分けて考えねばならないと言う。

1)脳死が私の死であるかどうか。
2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。
3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。

1)、2)は脳死についての「当事者の問い」である。

3)は「傍観者の問い」である。

私の死についてポイントとなるのは、「私の内的な意識の存在」の有無である。
「親しい他者の死」については、「私と他者の間に積み重ねられてきた人間関係の歴史」である。
「見知らぬ他者の死」については、脳死の身体についての医学的な常識である。

これまでの脳死は、見知らぬ患者を見る時の医学の視線、すなわち三人称の傍観者の問いによって語られてきた。しかし、本当に必要なのは、人間関係の中に巻き込まれたときに人が発する、当事者間の問いなのではないのか。

ここで小松美彦氏の「共鳴する死」が浮上する。
氏は、人と人との関係性を考慮しない脳死論に疑問を投げかけ、「人々はひとつの死をともに生きており、死はひとつながりの紐帯となっているのである。あたかも振動数を同じくする発音体がつぎつぎと共鳴りを起こしてひとつの音をなすように、あるものの死亡は周囲のものと分かち合われ、ひとつの死を形作る」と言う。脳死論で見失われてきたのは、まさにこの意味での「共鳴する死」である。
脳死の人の死のプロセスは、それを取り巻く人々とのあいだで共有され、その死は共鳴し、あるひとつの関係を形作る。そして、ひとたびこのような関係性に目を向けると「脳死は人の死である」と一義的に判断することは不可能になると言うのである。

次は具体的例を出して述べます。