No man's land

2011-08-28 22:23:06 | 日記
 土曜日に京王プラザで仕事だった。看護管理学会の大会だったのだが、2500人の参加登録だったそうだ。今年のICNのマルタの大会のときの参加人数もそのぐらいだったのではないだろうか。国際会議を超える規模ということになる。

 フィンランドでのナースの職員配置のシステムについての講演セッションでの通訳だった。木曜日にも同じ内容でべつのところで、通訳はした。でも学会では、さすがに、具体的な解析を含めた方法に突っ込んだ質問が来た。

 内容については、事前に、日本の看護必要度の本と、フィンランドの当該のシステムの論文を購入して読み、ネットの情報もカバーしていたので、質疑やディスカッションでも問題は感じていなかった。ただ、会議ではよくあることだが、質疑やディスカッションでは、問題が具体的になればなるほど、演者もなかなか、核心部分は話さず、攻防があることがある。だから面白いのだが、こういう場面の通訳は難しい。

 「ディスカッションが日本語で行われていたとしたら、そうであるように、話者の曖昧なところは曖昧なように訳す。日本語だったら当然出るはずであろう質問が出てくるように訳すのだ」と私は近藤先生から教えられた。完璧なものはない。でも少しでも良い成果が上げられるように努力をつづけていくのだと。

 そして、思い出したのは、島田正一氏がインタビューで「伊丹明の言葉で自分も一番同意したものだ」として紹介してくださった言葉だ:
 「日本語と英語の間にはノーマンズランド(no man's land)がある」(大東フォーラム第13号p33)。(伊丹、島田両氏についてはこのブログの「8月15日に思ったこと」参照)。 

 この狭間で仕事をする限り、こうして悩み考え続けることができる。この言葉、よく分かる。



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Migration:移住/移動

2011-08-23 10:51:07 | 医療用語(看護、医学)
 猛暑から一転、お天気はよくないけど、気温は下がってホッとしている。8月も終わりに入った。

 前回の第二次大戦中の日系移民の話から、今度は、現在の医療職者のmigrationに話を移す。
 
 migrationは、「移住」「移動」のことだ。前回、少し触れたが、人間のmigrationは、失業や貧困、教育やキャリアアップの機会がない、政治的不安定などの送り出し要因(push factor)がある所から、仕事の需要、高い給料、魅力的な教育や上級キャリアへの機会、安定した生活などの引き付け要因(pull factor)を持つ場所へ、生じる。一国の中では、農村部から都市部への移動となり、国際間では、途上国から先進国への移動となる。国際的にmigrationという場合は、「国際労働移動」のことを指すことがほとんどだ。

 労働移動で問題とされているのは医療職者で、特に看護師の移動は、2000年代、特に半ばから後半にかけて大きな議論になった。

 この話をとり上げた会議で最初に関わったのは、確か、2004年のカナダ関連のシンポジウムだった。カナダでの移民受け入れの状況の説明があり、専門職では医師の受け入れは厳しく、むしろ、看護師の資格の方が受け入れられやすいという話があった。カナダ人スピーカーは、「カナダでは、タクシードライバーに、医師資格のある移民が多い。(このように医師としての受け入れを制限しているのは)まさか、政権幹部が自分がタクシーに乗って心臓発作を起こしたときのために、そうしているわけではないだろうに」といって、会場からドッと笑いが出たのを覚えている。

 そのあとぐらいからだ。医療職者の国際労働移動については、ICN関連で、非常に活発に出てくるようになった。背景は、WTO(世界貿易機関)のウルグライラウンドで締結されたGATS(サービス貿易の自由化の枠組みで1995年発効)である。それまでの貿易協定は物だけだったが、サービスの自由な取り引きの枠組みができたのだ。その中に、個人が海外に出てサービスを提供することが含まれる。医療職者の国際労働移動にあたる。ただ、自由といっても、受け入れには資格や適格性、能力、そして言語の要件、審査はある。言語に関しては、英語圏の英国、オーストラリア、カナダ、アメリカも要件は厳しい。

 先のカナダのシンポジウムであった話はそのとおりで、医師資格での移民は難しく、途上国の大学の医学部には、先進国の看護師で働けるようにするプログラムが整備されていたりする。自国で医師で働くより、先進国の看護師の方がずっと給料は高く、家族に十分送金(remittance)できるのだ。

 このあたりの話にもし関心があれば、下記の本をお薦めする。
Mireille Kingma (2006):Nurses on the Move Migration and Global Health Care Economy, New York: Cornell University Press.(キングマ、ミレイユ著、井部俊子監修、山本敦子翻訳(2008):国を超えて移住する看護師たち、エルゼビア・ジャパン社)

 私は、原著が2006年出版されてすぐに読んだ。とても良い本だった。アメリカで働く途上国のナースに、たくさんインタビューをしている。読みやすい。でも英語の質は大変高い。
 邦訳は看護学名著シリーズに入っているが、もっと一般的な本として出しても、全くおかしくない。どちらかといえば、社会学的な内容なので、その筋の研究者にとって貴重なものだと思う。医療職自体の国際労働移動についてこれ以上の本はまだ、出ていない。また、一般的な読者が読めることを想定したものでもある。
 
(ちなみに、エルゼビア・ジャパン社の看護学名著シリーズには、拙訳である、ジュリア バルザー ライリー著(渡部富栄訳)(2007)『看護のコミュニケーション』がある。400頁本だが、2007年に発行以降、各大学や大学院、学会で文献として使われている。このシリーズは、これまで海外の看護学で教科書に近い状態でよく使われてきた本で邦訳されていないものが多々あり、その翻訳を出そうということで企画されたシリーズだ。日本の看護関係者にとっては、どれも良書で貴重な文献になっている)。

 キングマ氏は、ICNの看護および保健医療政策のコンサルタントとして長く活躍されてきた。現在は、フリーのコンサルタントとして国際会議でもお目にかかる。2005年最初にお会いしたとき、私は、世界のナースにはこんなステキな人がいるのだとびっくりした。知的で冷静、凛としており、ゆっくりと、明瞭な誰にでも分かる言葉を使う。アサーティブだけど、人の話はよく聴く。でも譲れないときは毅然と対決する。ICNを辞めると聞いて、世界の多くのナースはとても残念がった。5歳のとき両親とともに、スイスからアメリカに移住ている。国際移動に関心を持ったのもそうした経験があってのことだ。

 看護師の国際労働移動で問題になるのが、MRA(Mutual Recognition Agreement)である。資格の相互認証のことだ。EUなど域内では認められることになるのだが、例えば、ポーランドなど、看護の制度管理が不安定なところはレベルも低く、加盟国との格差があって問題になっている。
 
 看護師の国際労働移動の話は、途上国から先進国への移動により、途上国の厳しい保健医療が、さらに打撃を受けることや、ブローカーの暗躍などなど、大きな問題になって、2008年ウガンダのカンパラで保健人材に関するフォーラムが行われ、カンパラ宣言と世界世界行動アジェンダが採択された。受入国は外国人看護師を「倫理的に採用する」ことが宣言された。そのあと、この問題は、少し落ち着き、今は、フォローアップしている状況のようだ。

 外国人看護師を大量に採用してきたのはイギリスだった。サッチャー政権の民営化以降、自国での医療職者の養成を減らして、不足分を外国人をどんどん、受け入れてきた。でもそれは安定的な医療職者の確保ではなかった。その後、ブレア政権になってNHS改革が行われ、状況は徐々に是正されてきている。結局、結論として、保健医療職者を「輸入」することは、長期的対策として有効なものではなかったのだ。

 カンパラ以降、共通の認識は、国際労働移動が問題なのは、先進国および途上国ともに、自国の潜在労働力を有効活用できていないことが問題だということになっている。医療は国民の生産性を支える重要な要素であるのであれば、教育、採用、定着、それができる働きやすい職場の整備は、国の重要な政策であるべきだということだ。
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8月15日に思ったこと (続き)

2011-08-17 09:26:12 | 日記
 (昨日の続き)
 NHKの番組『渡辺謙アメリカを行く』には、マンザナールの強制収容所跡が出てきた。東京裁判の通訳のモニターであった伊丹明がいたところだ。伊丹は東京裁判の後半あたりから、うつ的になっていたようだが、そのあと、39歳でピストル自殺している。伊丹のことはフィクションとして、山崎豊子の『二つの祖国』になっている。2つの国のどちらにも自分のアイデンティティーを見つけることができなかったとして。

 移動/移住/移民(migration)が生じるには。送り出し国側のプッシュ要因(push factor:送り出し要因)と受入国側のプル要因(pull factor:引き付け要因)がある。新たなチャレンジや知識/技術の習得を求めてする移住とは異なり、移民の場合の多くが、自国では経済的にやっていけないという状況がある(プッシュ要因)。同時に、移民労働を受け入れる国があり、そこでは自国よりもいい賃金や待遇の仕事がある(プル要因)。だから、他国で働くことを決心する。自分の国に問題がなければそのような決心はしない。そのように、国際移動の話では、説明されている。そうして、移住してきた一世の人たちは、受入国での差別にあいながら、望郷の気持ちを抑えて必死で、移り住んだ土地で生きていこうとがんばる。三世になると同化が進む。でも二世のアイデンティティーは複雑だ。ましてや、第二次世界大戦中のアメリカの状況を考えると、帰米の場合、自国で生活・教育の経験があるだけ、その葛藤がいかばかりだったかと思う。

 そのようなことを、終戦の日の番組をみて、いろいろ思い出した。

 
 移動/移住/移民に関連したことだが、別の機会に、医療職者の国際移動のことをとりあげる。2000年の前半から半ばにかけて、国際会議で非常に活発に取り上げられたテーマだ。(今は、大分落ち着いた)。 
 
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8月15日に思ったこと

2011-08-16 23:12:01 | 日記
 猛暑が続く。湿度も高い。少し動いただけで、全身に汗が噴出す。

 夏休みを3日とって、実家にいる母、妹弟と過ごした。そして、2年ぶりに高校時代からの友3人に会った。自然に素直に、率直に話ができ、意見もいってくれる。私にとっては大切な人たちで、人生でめぐり合えた幸運に感謝している。

 家に戻ったら、子どもたちも帰ってきて、一家全員が揃った。食事の世話に追われたが、楽しかった。ただ、ブログはちょっと時間が空いてしまった。

 
 昨日、8月15日、NHKで、「渡辺謙アメリカを行く」を見た。元運輸長官のノーマン・ミネタとのインタビューの中で、第二次世界大戦中の日系人収容所(Concentration Camp)が出てきた。太平洋戦争が始まり、太平洋沿岸に住んでいた日系人が強制立ち退きとなり、砂漠などに急ごしらえされた収容施設だ。アメリカ政府は、Relocation Center(転住センター)と言っていたけれど、実際は強制収容所に他ならない。私の修士論文のテーマは、『東京裁判の通訳研究 ― 東條英機証言を通じて ―』だったので、当時のことは、背景として、いろいろ調べた。テレビを見ていたら、それらも含め、論文に関することをいろいろ、思い出した。

 論文に取り組んでたのは、1990年の半ばだ。困ったのは、当時、東京裁判の通訳に関する資料が、ほとんどなかったことだった。東京裁判の速記録を国会図書館で調べると同時に、まだ生存されているであろう当時の通訳者を捜すのに躍起になっていた。六本木の外務省の資料館で事情を話して関連資料を見せてくれるように、頼みこみ、何とか手がかりを得たとき、本当にうれしかった。でも、やっと特定できた島内敏郎氏(東京裁判の通訳者で一番、勤務回数が多かった。外交官)に連絡はとれたが、もうご病気が悪く、話を聞くことはできなかった。お会いできないことが分かったとき、正直、落胆した。結局、当時の通訳者、島田正一氏(島内氏に次いで勤務回数が多かった。通信社記者)に会えたのは、皮肉なことに、修士論文を提出してからだった。島田氏のことは、『大東フォーラム』13号(2000年)の特集のなかで、インタビューとして、恩師の近藤正臣先生と一緒にまとめた。非常に貴重な資料になっている。その他、特集の中には、私が書いた「東京裁判とモニターの役割」もある。

 この『大東フォーラム』は、帰米2世(若いころに日本で教育を受けて、そのあとアメリカに戻っている)で東京裁判のモニターだった伊丹明についての特集だった。山崎豊子の『二つの祖国』、NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』の主人公 天羽賢治のモデルだ。戦前、大東文化大学に在学していた。大学院の通訳演習室の壁には、東京裁判でのヘッドフォンつけた伊丹明のレリーフが組み込まれている。



 東京裁判の正式名称は、極東国際軍事裁判所だ。映像で東條英機がヘッドフォンをしているシーンが出てきたのを覚えている人もいるだろう。市ヶ谷の陸軍大学校の大講堂を改造して法廷にし、そのときに通訳ブースが設置された。東京裁判よりも前に開廷していたニュルンベルグ裁判(ナチス・ドイツの戦争犯罪人を裁いた軍事裁判)ですでに使われていたIBMの通訳システムを使うのがよいだろうということで、法廷自体の造り付けのブースになったのだ。ただ、ニュルンベルグでは同時通訳が行われたが、日本での最初の同時通訳は東京裁判ではない。東京裁判ではIBM装置を使ってはいるけれど逐次通訳だった。
 
 ニュルンベルグ裁判と東京裁判はよく対比されるが、このように、通訳に関してもかなり違う。ニュルンベルグでは、Léon Dostertというアイゼンハワー付きのフランス語通訳者だった人が主席通訳者だった。裁判のあとは、ジョージタウン大学大学院言語学研究科を作り、通訳翻訳の高度高等教育を進めた。ジュネーブ大学大学院などでの通訳教育がさらに進められたのも、ニュルンベルグの経験を踏まえてのことだった。
 東京裁判では、日本人通訳者と連合軍から帰米のモニターが4人関わっている。通訳者は、外務省関係者や国際的な通信社の記者だったりで、のちにフリーランスの通訳者になった人はいないし、通訳者教育に関わってもいない。今の会議通訳の始まりは、1960年以降の同時通訳者の登場(東京オリンピック、アポロの月面着陸以降)による。教育もそれ以降、スクールをベースにしたもので、大学院教育も1995年大東文化大学での修士プログラムまでできていない。 
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Advocacy:アドボカシー

2011-08-08 23:09:56 | 医療用語(看護、医学)
  advocacyという言葉を最初に見たのは、1990年代の半ば、小児の保健医療で、プレイセラピーに関する仕事を通じてだった。プレイセラピーとは、遊びを通じて医療を受ける子どもたちに準備教育(preparation)をする専門領域で、その専門家をプレイセラピストという。advocacyを「権利擁護」と訳していた。

 看護では、カタカナで「アドボカシー」とした。アドボカシーを行う人を「アドボケイト(advocate)」という。ナースは患者のアドボケイトだ。

 アドボカシーとは、一般的には、社会的弱者に対して権利擁護をしていくことで、advocacy organizationは、患者団体や親の会(小児がんなど小児疾患の親の団体がそれにあたる)になる。医療職者がそうした団体のサポートをすることもアドボカシーになる。

 権利擁護だけでなく、「代弁」もアドボカシーの大切な機能だ。患者の権利やニーズを代弁し、適切な医療を受けられるようにする。ベッドサイドでは一番、患者のそばに存在するのがナースであるため、看護の重要な役割であるとしている。

 医療通訳者も、医療チームの一員として患者アドボカシーが求められ、カリフォルニア医療通訳者協会の倫理綱領には、第4番目の役割として、Patient Advocacyが挙げられている↓
http://www.fachc.org/pdf/mig_ca_standards_healthcare_interpreters.pdf

 アドボカシーが日本で文献に現れ始めて、20年ぐらいだろうか。以上が、これまで主に、アドボカシーについて説明されてきたことだ。

 アドボカシーに関して看護については、注意すべきことがある。国際看護の文献で、特に2000年前後の動きとして、professional advocacyという言葉が出てきた。「専門職者のアドボカシー」になる。これには上記の意味からもっと発展したアドボカシーだ。ウィキにある(下記URL)「社会問題に対処するために政府や自治体及びそれに準ずる機関に影響をもたらし、公共政策の形成及び変容を促すことを目的とした活動である」に関わるものといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%BC

 professional advocacyの中には、最初に述べた患者のアドボカシーだけでなく、看護職自体をアドボケイトする必要性が強調されている。看護の政治的な役割に関わる。

 背景を説明すると、看護における患者アドボカシーの初期の欧米の文献の中で、ナースが患者の権利を擁護し代弁していこうとしても、看護がそれをするだけエンパワーされておらず、進まないということが挙げられていた。例えば、患者にとって良質な医療を目指しても、社会的な地位や認知、医療の中での立場(対等な協働になっていない)、多職種との連携、看護師不足や労働量などなど、看護をめぐるいろいろな問題や制約でうまく行かない。ナースは常に患者のそばに存在する専門職であることから発展させてきた人間中心の知識ベースがあるが、そうした状況では有効に活用して人々の福祉を向上できない。そのために、看護職をアドボケイトし、一般の人々からより多くの理解と支援を得て、看護や医療に関する社会政策の実現を目指せるように力をつける必要性が主張されるようになった。そうした社会/保健医療政策を実現して、初めて患者のアドボカシーになるということなのだ。

 例えば、簡単なことからいうと、ナースは自分の仕事について、家族(夫や子ども、親、兄弟)に話をする。どんなすばらしい仕事か、苦労はあるけどやりがいがある。地域の人々にも看護のすばらしさを話ができる機会を得る。例としては、学校で子どもたちに話ができる機会を作るなど。そうした日常、1人1人ができることから始まって、病院内の活動では、日常の実践の中で患者や家族にセルフケアの指導をしながら看護の有効性を説明したり、多職種の人たちに看護の効果をしめすとともに協働の仕方の例を示したり(看護の重要な役割にコーディネーションがある)、ケアの改善について院内の委員会で看護が重視される方向で発言をしたりする。もっと大きくなると、より良い看護ができるような政策実現や法律改正を目指して、交渉ができる力をつける(専門職団体などを通じて)。そのために、メディアを有効に使って、看護が人々の健康と幸福、福祉に不可欠なものであることを訴えるとともに、ナースがリーダーシップを取れるイメージを世の中に広げていく(ケアリングばかりではない)。

 このことは、看護が自分のことばかりを主張しているということではない。人々が必要とする看護を守っていくには、看護自体が世の中から評価され支援をされなければ叶わない。そのために、ナースには、professional advocacyが必要なのだということだ。

 その意味でのアドボカシーを展開できる力の養成を看護基礎教育(学部レベルの教育)の段階から組み入れていかなければならないとしている。

 看護におけるprofessional advocacyについては、日本の看護文献ではまだ出てきていない。日本の論文では、「患者アドボカシー」として代弁と権利擁護のことが主に述べられているだけだ。しかし、看護の国際文献では、アドボカシーは、「看護の政治および政策」中で上記のことがしっかり、説明されている。
 
 国際的な看護の議論でのテーマの推移は、今後、機会があれば、ブログで紹介するつもりだ。学術的なテーマは時間とともに推移する。どの分野にもそれはいえる。看護の場合、ICNが一番大きな団体だ。看護の各分野の指導者が関わる専門職団体であり、そこの動きは国際看護全体の基調で、細分化された看護分野にも反映されている。実際、看護の個別分野(例えば、看護教育、がん看護など)の仕事を受けたとき、関係項目では共通の認識をベースにした議論になっている。

 professional advocacyについては、看護で見られる考え方が、今後、他の分野でも現れるかもしれない。というのは、看護では、社会学的研究がすでに、1970年代から盛んであり、看護研究の視点や方法が、30年あとに、他の分野で見られ始めたりしている。このことは、看護学が他の分野よりもずっと進んでいると私が感じている部分だ。

 参考文献:Mason, D.J., Leavitt, J.K., Chaffee, M.W.(2007): Policy Politics in Nursing and Healthcare, St. Louis: Saunders Elsevier, pp36-37.
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