goo blog サービス終了のお知らせ 

海外の論文:看護/医療におけるホイッスル・ブローイング

2013-02-15 23:40:00 | お奨めの論文・レポート
  前回からの続き

 国際看護の文書や会議の中で、「ホイッスル・ブローワーの保護の必要性」という表現がでてくることは、前回、述べた。具体的には、日常の看護の実践や研究活動だけでなく、不当な労働問題や組織全体のガバナンスに関して出ている。

 ICNの看護師の倫理綱領には、「看護師は、個人、家族および地域社会の健康が協働者あるいは他の者によって危険にさらされているときは、それらの人々や地域社会を安全に保護するために適切な措置をとる」(ICNの看護師の倫理綱領 http://www.nurse.or.jp/nursing/practice/rinri/pdf/icncodejapanese2005.pdf)とあり、それを主要国の看護の規制及び専門職団体が支持している。つまり、能力のないか、あるいは非倫理的か、不法かする、システムを含めた他者によって危険にさらされた個人を保護するために、ナースは適切な行動をとらなければならないとする立場をとっている。

 誤解がないように言っておきたいが、適切な行動がいきなり、ホイッスル・ブローイングになるのではない。ホイッスル・ブローイングになるまでには、通常の報告/通報などのチャネルを通じての対応など、あらゆることがやりつくされている。
 ホイッスル・ブローイングは、正しいことをするか、不正を正すための行動になるのだが、職務に関する守秘を含めた行動義務に違反して、外部に情報(証拠になる情報を含めて)を告発あるいは通報しなければならなくなる。つまり、倫理的及び職業的なジレンマに陥ることである。

 ガバナンスが機能している正常な組織では、問題を発見した場合に報告あるいは通報するチャネルがしっかり整備されている。日常の実践問題であれば、各グループやユニットで改善活動をすることになる。民主的な意見を率直に出し合え、自分の発言が前向きにとらえられて組織改革につながっていく環境である。
 報告/通報のチャネルがないか、あっても、(周りが不正を見て見ぬふりをしており)そこで発言することが問題行動だととらえられるか、さらに機能不全な状態になると、組織ぐるみの不正かというのが、内部告発で暴かれた企業に共通の組織問題である。

 医療におけるホイッスル・ブローイングで有名なものは、Stephen Bolsinという英国の麻酔医の話だ。ブリストル王立小児病院事件( Bristol Royal Infirmary Case)である。Bolsin医師は1989年に麻酔のコンサルタント医師(医長に当たる)として入職したが、心臓手術における(小児)死亡率が高すぎることに驚き、続く6年間で改善を図って、死亡率30%を5%未満に減少させた。しかし、当該の小児外科医らと対立、調査を拒否され、状況をメディアに公表する。結果的には、政府の大掛かりな調査になり、ケネディーレポート(ケネディーは担当した議員の名前)としてクリニカルガバナンスに関する数々の勧告になって、イギリスの病院の大きな組織改革に至った。

 医療のガバナンスの話では、ここまではよく出てくる。だが、Bolsin氏のその後についてはそれ以上、触れられない。実は、このスキャンダルの後、英国では医師の仕事ができなくなってしまった。オーストラリアに移って麻酔医として働き、以後、モナッシュ大学、メルボルン大学の医学部で教鞭(上級リサーチフェロー/名誉准教授)となっている。北米、英国、豪州などで、麻酔・外科領域のケアの質改善について大きな貢献をしている。大学関係者と共同して、ホイッスル・ブローワーの保護の活動をしている。

 ホイッスル・ブローイングは、大きな葛藤の末のことであるのだが、組織や同僚からは裏切り者として扱われ、阻害され、ハラスメントを受け、最終的には辞職に至ることが多い。

 もし、患者を危険にさらしていることが分かったとき、組織の不正を知ってしまったとき、そのままにしておいたら、いずれ大きなスキャンダルになって、組織全体の存亡の危機になることが目に見えて分かっているとき、是正するための内部ルートが機能しないとき、どうするか。ホイッスル・ブローワ―には下位の職員だけでなく、管理職、経営サイドの人間も入っている。「正しいことをする」ことをどう考えるのか、今のところ、日本にそうした文献があまりないのが残念だ(日本語の内部告発一般に関する書物は、中公新書の『内部告発と公益通報』など、いくつかあるが 看護および医療ではない)。

 そうした意味でお奨めの英語の記述は以下である。いずれもネットからアクセスできる。

Mireille Kingma(2009):Blowing the whistle in poor quality care, ICHRN eLetter. http://www.aaahrh.org/newsletter/ICHRN_NEWS.pdf#search='Blowing+the+whistle+in+poor+quality+care'
(ICNにある国際看護人材センターの元所長であるキングマ氏による記事。キングマ氏は、ナースの国際労働移動について書いた『国を超えて移住する看護師たち』(エルゼビアジャパン社)の著者)。これは2ページに簡潔に書いてある。笛を鳴らす(to blow the whistle)前に、倫理および法律上の権利とそして責任を考えるようにと記している)

Faunce TA and Bolsin SNC (2004). “Three Australian whistleblowing sagas: lessons for internal and external regulation”MJA Volume 181 Number 1 5 July 2004.
https://www.mja.com.au/journal/2004/181/1/three-australian-whistleblowing-sagas-lessons-internal-and-external-regulation
(上記のBolsin氏も共著者になっている論文。オーストラリアにおける3つの事例からの教訓)

Firtko A and Jackson D (2005). “Do the ends justify the means? Nursing and the dilemma of whistleblowing” Australian Journal of Advanced Nursing, Volume 23 Number 1, 2005.
http://www.ajan.com.au/Vol23/Vol23.1-7.pdf
(このテーマでは、非常によく引用されている論文。ホイッスル・ブローイングにおけるメディアの影響を細かく分析している。メディアに流れると、本来解決すべき問題に注力すべきなのに、人々の関心と注目がその問題を通報あるいは告発した人に移ってしまう状況が述べられている。葛藤、苦労、非難など、大きな犠牲があるにしても、結果的により患者の命が守られ、より良い組織になったのであれば、「結果は手段を正当化できる」(the ends justify the means.)と主張している。「結果は手段を正当化できるか」はこの問題ではよく出でてくるテーマである)

Jackson, D. et (2010):Understanding whistleblowing: qualitative insights from nurse.Journal of Advanced Nursing.
http://www.bryanhealth.com/workfiles/cohs/whistleblowarticle.pdf
(ナースのホイッスル・ブローワ―のインタビューに基づく質研究。実際の声を記した数少ない論文)

Fletcher, J.J.et al.(1998):Whistleblowing As a Failure of Organizational Ethics. Online Journal of Issues in Nursing
http://nursingworld.org/MainMenuCategories/ANAMarketplace/ANAPeriodicals/OJIN/TableofContents/Vol31998/No3Dec1998/Whistleblowing.html
(アメリカ看護師協会のオンラインジャーナル。ホイッスル・ブローイングに至るような医療現場の状況が問題で、組織全体の倫理が機能していない証拠である。こうしたチェックは、ICAHO(合同認証員会)の基準に組み込むべきものだと主張した論文)

 この問題についてのパブリケーションは、オーストラリアからのものが多い。

 上記最初の文献のKingma氏は、「多くの国でホイッスル・ブローワーの重要性を認識して、保護する法律ができている。米国通報者保護法は幅広い保護になっているが、英国、南アフリカ、ニュージーランドでは、規定されたチャネルか当局への通報のみの保護になっている。法律があるからとすべての状況での保護にはなっていない」という。日本の公益通報者保護法は、通報者に対する解雇などの雇用者の不当処置からの保護であって、通報者の匿名性は保護されない。保護のレベルは内部、行政、外部(メディア等)通報の順になっている。

Firtko A and Jackson D の論文で、ホイッスル・ブローイングをする前にナースが考えることとして以下のことを挙げている: 
● だれの利益が守られるのか?
● だれがダメージを受ける可能性があるか?
● ホイッスル・ブローイングの動機は何か?
● ホイッスルブローイングはそれをする人と組織にどのような影響を与えるか?
● その問題について注目させるために、別の方法はあるか?
● ホイッスル・ブローイングでその問題は解決するのか?

 ホイッスル・ブローイングについては、バイオエシックスとして、基礎教育の中で採りあげ、個人および組織の倫理的な意思決定をどうするのかを具体的に議論する経験を積み上げる必要があると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医師の業務独占とこれからの医療職の業務規制について(アメリカの論文)

2012-07-03 11:46:04 | お奨めの論文・レポート
  昨日、INR誌の最新版に掲載された「IOMレポート『看護の未来:変化をリードし、医療を強化する』がアメリカの看護にもたらすもの」(渡部富栄)のことについてお知らせしたが、編集長の村上さんが編集後記で触れてくれているBarbara J. Safreitの論文のことを、少し補足しておく。論文は次のサイトからダウンロードできる(Safreit,B.J.(Federal Options for Maximizing the Value of Advanced practice Nurses in Providing Quality, Cost-Effective Health Care:IOM (2010):The Future of Nursing, p453,http://www.amazon.co.jp/Future-Nursing-Advancing-Institute-Medicine/dp/0309158230/ref=sr_1_fkmr0_1?ie=UTF8&qid=1328408510&sr=8-1-fkmr0)
 
 Safreitは、このブログでもすでに何回か、登場している。イェール大学ロースクールの副研究科長で、法学者の視点から、アメリカの医師の業務独占について鋭い視点で、May(法律で認められている裁量)とCan(実際の能力)という表現で論じている。こういう内容の論文や記述は日本にはない。医療職の規制で普遍的な内容で、とても参考になる。詳しくは、本ブログの過去の記事を読んでいただきたい。

・Can(能力) vs. May(裁量):Barbara J. Safrietの論文から(http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=397c09b3a33a5c06b78ba09022b45e4e)
・Race to the Bottom(http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=9edfe62823f142d74cd770904229fd59)

 5月にジュネーブに行ったとき、アメリカ看護師協会の関係者にSafreitの論文のことを話したら、すぐに下記の2つを送ってくれた。いずれもYale Journal of Regulationに掲載されたものだ。やはり、アメリカの看護の世界でも注目されている論文で、骨子は1992年に出ている。

Safreit, B.J.(1992):Health Care Dollars and regulatory Sense: The role of Advanced Practice Nursing, Yale Journal on Regulation 9:417-440.

_______________(2002): Closing the Gap between Can and May in Health-Care Providers' Scopes of Practice: A Primer for Policymakers. Yale Journal on Regulation 19:301-334.


 現在の多職種協働チームによる医療において、人々が質の高いケアを享受しようとすると、各職種が受けた専門教育で身に着けた能力を余すところ発揮する必要がある。それを実現するには現在の医療職者の規制では限界だ。医師の絶対的な業務独占の限界を論じつつ、多職種チームでは、チームが最適な能力を発揮するには、規制される能力は各職種でオーバーラップする部分を認めることが必要であるとSafreitは言っている。

 こういう論文が出てくるところがアメリカのすごさだ。日本の論文で「保助看法ではこう定めている」と述べ、業務範囲(英語でいうとscope of practice:実践の範囲)が説明されることが多いようだ。「看護とは何か」を説明するときもナイチンゲールとともに保助看法の規定が説明されるのだ。確かに保助看法に逸脱することは違法行為になるので、業務の説明ではそうなるのだが、ここにやはり日本人の文化的なものを感じてしまう。法律をア・プリオリ、つまり前提として持ってきてしまうのだ。でも、果たして現行の法律は、今の、これからの時代の看護の力を最大限発揮して人々の幸福の実現に沿うものなのか、医師の業務独占も含め、再考する必要はある。
 
 Safreitの3つの論文のいずれかを邦訳して、日本の関係者が読めるようにすべきであると思っているのだが。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看護の未来予想図:医療(ケア)の質のメインプレーヤー

2012-07-02 23:58:00 | お奨めの論文・レポート
  インターナショナル・ナーシング・レビュー誌(INR)(ICN機関誌INRの日本版:日本看護協会発行)の最新号(35巻4号、2012年夏号)が出た。表題は、その中に含まれている私が書いたレポート 『看護の未来:変化をリードし、医療を強化する』がアメリカ看護にもたらすもの」のメインテーマだ。これは、アメリカIOMレポートFuture of Nursingについて、日本のナースに参考になる形でまとめたものだ。

 余談だが、「看護の未来」という言葉について、昔のことなのだが、私の記憶に残っている話がある。もう、30年ぐらい前に私の看護の時代の恩師からこの言葉を聞いた、という記憶だ。雑談でのことだが、「アメリカのナースの話を聞いていると看護に未来はある」と言っていた。同じようなことは、看護職ではないが、かつて通訳スクールで教えてもらった恩師からも聞いた。医学領域を得意としている第一線の通訳者であるが、過去にいろいろな分野の通訳をして、さまざまなゲストスピーカーと一緒に仕事をした経験の上で「アメリカのナースはすごい」といっていた。そのすごさは、かねがね興味があったのだが、今の仕事をし始め、そのようなナースに会い、確かに私もそう思っている。それがやはり、このIOMの看護の未来レポートにも出ている。

 アメリカでナースの政治的な意識の高まりは1970年代ぐらいからだ。ベトナム戦争があり、医師が不足し、特にコミュニティー、貧困者、僻地のケアが脱落した。お金にならない領域のケアだ。人数が少なくなった医師はあえてそこまではしない。そうした欠損を埋めるには、処方権限など裁量がなければ、仕事にならない。ナース自体が立ち上がり声を上げ、そうした裁量権を獲得してきた歴史がある。もちろん、それに伴う報酬の増額も求めてきた。1970年代にはナースの給料は一気に上がっている。報酬額は社会的地位の指標だ。この段階でアメリカ社会でのナースの社会な地位が上がったのである。(ちなみに、ICNの賃金データがウェブで公開されているが、アメリカのナースの給料は日本のナースの2倍近い。ただし、医師とナースの賃金格差はアメリカでは2倍ぐらい(ナース1:医師2)、日本では1.2倍(ナース1:医師1.2)ぐらいで、日本の均質な状況が表れている)
 ナースプラクティショナーは、そうして医師の裁量権を政治的力を使って、切り分けるように裁量を獲得してきたのだ。

 ナースの社会的な運動は政治学者も大変興味を持ってみていて、大東文化大学に毎年講義に来てくださるユタ大学法学部長で政治学者のRonald Hrebenar教授もよく御存じだった。

 このような社会的な運動はともすれば、一つの職業が自分たちの地位や報酬を吊り上げようとする勝手な活動だと思われがちで、ナースの中にも批判的に見る人がいるのだが、それは間違っている。看護自体が社会から軽んじられるようでは、ナースがいくら良い看護をしようとしても、患者や人々を守ろうとしても、世の中がナースのいうことを聞き入れてはくれないからだ。より良い看護のためにナースの社会での評価を高めることを、プロフェショナルアドボカシーという。それは、このブログでも取り上げたし、INR誌の拙者のコラム「通訳ブースから見える世界」にも書いてきた。実際のケアを行うことと一体になったものとして、看護の社会的な評価を高めるように動くことは、すべてのナースに必要なことだ。それまでケア一辺倒だったのだが、そのケアを充実させるために政治および社会変革力が必要だという共通認識は、アメリカだけでなく、国際看護の中で1990年代に起こっている。だから、現在の国際看護で採録される論文も、研究の枠組みの頑強さだけでなく、世の中にプラスの変化を与え看護の力を強化できる要素が見えるものになっているのだ。

 日本は国民皆保険制度で、世界的にみると安い医療費(cost)で、安定した質(quality)の医療を皆が平等に受けることができる(access)。アメリカはそれとは逆だ。自由診療で、お金のある人々には、日本で承認されていない高度な医療が最先端の医療施設で受けられる。でも一般の人々には厳しい医療だ。保険も高齢者扶助(メディケア)や低所得者扶助(メディケイド)を除けば民間保険で、健康保険を持たない人も3,200万人いるとされている。オバマ医療改革はそれを是正するためのもので、リベラルな人たちは支持しているが、保守派の人たちは「医療という個人の選択に政府が口を出すのはけしからん」と、ことがあるごとに、マントラのように繰り返し反対している。皆保険制度関するアメリカのこうした攻防は歴史的にずっと続いてきた。

 こうした状況に対してアメリカのナースは思考停止にはなっていない。その様子がIOMの『看護の未来レポート』は出ている。無保険者、高い医療費、そして医師不足という問題への社会改革として、ナースの力を医療の中核にして医療の再編を展望している。 「看護の未来予想図は医療の質のメインプレーヤー」であると、畳み掛けるような論理の展開と戦略的思考は見ていて気持ちがよく、他の分野の人間が見ても大変興味をそそられるものである。その中から、日本の視点から見て関連性のあるポイントを中心にまとめたのが、INR最新号に載っているレポートである。ぜひ、お目通しいただきたい。
 おなじINR誌に、私の連載コラム「通訳ブースから見える世界 『エビデンスに基づく』という言葉の始まり」も掲載されている。こちらも合わせて、ご覧いただければ幸いである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする