Can(能力) vs. May(裁量):Barbara J. Safrietの論文から

2012-04-18 11:42:00 | 本・論文の紹介(看護)
  引き続き、Barbara J. Safrietの論文、"Federal Options for Maximizing the Value of Advanced practice Nurses in Providing Quality, Cost-Effective Health Care"(質と費用対効果の高い医療を提供するための連邦政府の対策:高度実践ナース(APN)の価値を最大化するために)について、注目すべきところを紹介する。

 この論文は、2010年10月に発行されたアメリカIOMのThe Future of Nursing(看護の未来レポート)のバックグラウンドペーパーの一つで、骨子はIOMレポートに反映されている。

 筆者は法学者で、1990年代から医療全体の規制の中で看護の規制を分析している。このペーパーは、IOMのレポートの中で紹介されており、価値の高さを示している。

 アメリカでは医療職者は州ごとに規制されていることを前回述べたが、その結果、APNについては州ごとでやっていいことダメなことが異なり、APNが効果的に活用されていない問題が生じている。「安全で質の高い医療を保障していくためにすべての医療職者が教育を受けた能力を最大限活用されなければならない」と2001年のIOMのレポートCrossing the Quality Chasm A New Health System for the 21st Centuryにはっきりと示されていることなのだが、州別の規制では、それに反して、不当に能力が制限される。

 Safreitは 医師の業務独占のことを"everything is medicine"アプローチと表現し、次のように述べている(要約)。
(IOM (2010):The Future of Nursing, p453) http://www.amazon.co.jp/Future-Nursing-Advancing-Institute-Medicine/dp/0309158230/ref=sr_1_fkmr0_1?ie=UTF8&qid=1328408510&sr=8-1-fkmr0

 「どの州でも医師には実際、あらゆる種類の医学あるいは医療介入ができる権限が与えられている。医師という資格で、婦人科、がん、整形外科、小児科、網膜手術、あるいは精神科など、すべての実践ができる。法律上、同じ医師がそれらすべてを診療できるということだ。ただ、実際にそうしていないのは、法律で規制されているからではなく、業界規範、常識、倫理、専門職団体の資格認定などに基づき、自主的に各自が実践の範囲を制限しているからである。ということは、医師の規制については、「できること(can)」よりもはるかに大きな範囲で「してもよいこと(may)が認められている。能力以上の裁量権があたえられているのだ。
 それとは対照的なものがAPNである。(社会のマイノリティーのケアを確保しなければならないと1970年代から実践の範囲を広げてきたが)医師の裁量範囲を切り分けるように政治的な活動を通じて獲得してきた経緯があるので、規制が追いつかない。してもよい(may)の範囲のはるかに先のことができる(can)のに、認められる裁量権は常にその能力よりも小さい。これでは、せっかくの専門知識と技術を無駄にしてしまっている」

 Safreitの論文ではこの記述の前段階において、看護にまつわる問題として看護の特徴ではあるが裁量権等の議論の足かせになっているものであるので、注意を促している。それは以下のことである。

1.実践の場が幅広い。明らかに国民の健康増進への寄与はとても大きい
2.しかし、経済的に見える化できていない。ともすれば病院のコストセンターと考えられる(ということは、看護の貢献を測れる指標、その実行のためのエビデンスの蓄積が必要)
3.教育が、短大、大学といろいろある。短大卒が60%ぐらいなので、APNの話をしてもナース≒短大というイメージが強い。こういう場合も、世の中の印象は下のほうに収れんし、能力が過小評価される傾向がある。だから、看護教育は大学一本化すべきだ
4.Care vs. cure 日本でこの話になると日常生活の世話か診療の補助かという議論になるが、ここでは、careはコミュニティー、公衆衛生でのナースの役割のことを指している。cureは急性期ケアのことを言っており、今後は急性期からコミュニティケアへケアの重点がシフトする。APNの保健指導を始めとした力の発揮が期待される。ただ、現状として公衆衛生にしっかりした評価(経済的な評価)が与えられていないので問題だ。

 医師の裁量権については私もすっきりしないものを感じていたが、ここまで正面切って法律の立場から整理したこの論文には驚かされた。
 
 この論文にはまだまだいろいろな興味深い内容がある。APNの実践の制約がもたらす経済的損失、一般の認知不足もマイナス要因として大きいのでナースのプロフェショナルアドボカシーの重要性、法/制度整備を目指すも議員の支援が続かないこと(政治家は専門職団体間の争に巻き込まれることをおそれ、得るものよりも失うものが大きいと判断する)、APNの実践の範囲を制限しようとする医師の嫌がらせについては不正競争法の適用が可能であること(実際に公正取引委員会が動いている)など。
 
 看護の実践の範囲は固定したものではない。現在の医療の文脈では実践の範囲は拡大しオーバーラップする。その前提で変化する実践の範囲についてエビデンスを蓄積し、証明して定めていかなければならないという大きな役割が看護研究にあったのだと、私は感じている。そこがちょっとほかの分野と異なり、今見ていてとても興味深く面白い。そして他の分野にとってもその視点はとても参考になる。

 ICNの機関誌の日本語版インターナショナルレビュー誌の7月発行の号に、私が書いたIOMの看護レポートのトピックが掲載される。一昨日、編集長の村上さんに原稿を提出した。ここで書いたことを含め、詳しく分析したことを記載した。単なるレポートの総花的な紹介ではなく、日本のナースにとって、参考になる内容にしているので、ぜひ、読んでいただきたい。
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Race to the bottom

2012-04-15 22:32:00 | 本・論文の紹介(看護)
  'Race to the bottom' の意味は、「底辺への競争」。経済学で使われる。どんどん低水準に収れんしていく状態。グローバルな自由競争を加速させるために、減税や規制緩和などのインセンティブを与えるのだが、労働環境や自然、社会福祉などが、最低の水準に向けてどんどん低下していくことである。

 この言葉を看護の文献で見た。先日触れたが、IOMレポートThe Future of Nursingのバックグラウンドペーパーの一つで、法学研究者の立場から、看護、特に高度実践ナース(アメリカではAPRNという)の実践の範囲について述べた論文の中でである。筆者は、Barbara J. Safrietで、論文のタイトルは、"Federal Options for Maximizing the Value of Advanced practice Nurses in Providing Quality, Cost-Effective Health Care"である。

 医療職者の規制は、日本と異なりアメリカでは州ごとの規制だが、APNではそれが特に問題だとし、連邦レベルでの一括規制の必要性をこの論文は主張している。

 現在アメリカでは、APNの実践について「医師の指示や監督」を必要としない州は16州とワシントンDCになる。これらの州ではAPNは自分の裁量で実践できる。1970年代から徐々に数を増やしてきたAPNであっても、残りの州では医師の指示あるいは監督が必要である。

 問題は、実践の範囲が制限されていない州で実践していたAPN(NPなど)が隣の州に移動して仕事をしようとすると、前の州で許可されていたのに今度の州では医師の監督がなければできないことが起こることである。処方・紹介・出生/死亡証明はできるけど処方箋や診断書は医師の名前でしなければならなかったり、保険請求も医師の名前でないとできない等、多くのことをリストアップできる。そうした制限や禁止を理由に近隣の医師やその団体から開業を妨害されたりしているという。
 
 このように州ごとで一貫しない規制では、世の中の傾向としてrace to the bottom、つまり一番レベルの低い状況に合わせる方向に振れやすく、より厳しい規制や禁止に向かう。しっかりと教育を受け資格認定しても、その力が発揮されず能力が十分に使われることなく、その結果、一般社会はAPNのケアを享受できない。大きな経済的損失になる。さらに、そのような規制/法律ではAPNが不十分だというイメージを強化してしまう。

 それと全く対照的なのが医師である。医師は、別の州に移っても実践範囲は変わらない。医師には医療の業務独占が認められ、実践の範囲は包括的で、州が変わっても、禁止や制約はなく、いつでも同様にすべてのことが実践でき、医療職者への監督にまでその権限は及ぶ。

 長引いた風邪も治まり咳も出なくなった(まだ心配だが)。前に言っていたSafreitの論文紹介を続ける。
                                つづく  
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明日から大学の授業が始まる

2012-04-08 14:47:40 | 日記
  明日から大学の授業が始まる。

青学の通訳の授業は人数制限をするので選抜試験を行い、受講者を即日発表する。

大東大では、経済学部の英語ではプレゼンテーションにパワーポイントを使って発表させることを加える。ただ、自分でテーマを決めてリサーチして英語を書かなければならない授業で、例年と同じく、日本語の特性から学習する。主語がない、footingが定まらない、論理が脆弱な日本語では、絶対に英語にはできない。

 大学院の2コマはM2が対象なので、さらに実践的なものにする。1コマは経済や経営系の話題になるので、早い段階でIR(投資家広報)を入れる。もう1コマは医療関係で、日本の医療/介護制度を説明できる力の強化から始める。そのほか、医療労働、国際移動、医療特許は生産管理もカバーするつもりだ。テープ教材を使わず、学生に発表を課し、英語日本語でポイントをストーリーにして「話す」ことに力を入れ、それを他の学生が逐次・同時で訳していく。


 咳がようやくなくなった。3週間は続いた。コデイン入りの鎮咳剤まで使ったけど、結局、時間をかけて自然回復したようだ。
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通訳教育・指導プロジェクトの発表は終わりました

2012-04-03 23:27:00 | 日記
 外は嵐になっている。咲きかけた桜が気になる。明日は家の周りは落ち葉など、掃除が大変かもしれない。

 先週の土曜日に日本通訳翻訳学会の通訳教育・指導プロジェクトの会合があった。

 「対人コミュニケーションから通訳および通訳教育を考える」という題で発表した。前半は新崎先生と石黒先生が合同で日英通訳の新たな指導法研究についての発表だった。35人ぐらいの参加だったと思う。13:30から17:00まで、発表の後の質疑もとても活発で熱気があった。

 私の発表のきっかけは、昨年3月にライフサポート社から出版した『対人コミュニケーション入門 看護のパワーアップにつながる理論と技術』だ。日本通訳翻訳学会の先生方で何人もの方々が読んでくださり、それがきっかけで、題名のような内容で発表することになった。

 通訳教育の中で、対人コミュニケーションの理論は教えられてはいない。ただ、文脈に照らし合わせて推論して意味付けし、その意味が次の文脈を形成していくという対人間のやり取りのはざまに通訳は位置する。基本的なコミュニケーションの理論は一通りの指導はして、絶えず、訳出するときにその意味付けのプロセスをリマインドする必要はある。

 
 目下、4月10日に締切になる『産業看護』誌の対人コミュニケーションから見た保健指導の原稿とINRの原稿の作成に追われている。4月9日から大東文化大と青学の授業が同時に始まるので、それまでに仕上げたい。

 治らない風邪はまだ引きずっている。咳がまだ残る。咳はあれからまたひどく、一時、強めの鎮咳薬を飲んでいたのだが、頭はぼーっとするし、どうしようかと思っていた。実は、学会の発表の日がひどく、乗り切れるか心配だった。何とか終わってよかった。 
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