他宗の人々が救いにあずかる可能性について、教会と指導者はどう見ているのだろうか。以前(12年前)にまとめていた引用文をここに掲載したい。
教義と聖約 84:46
「御霊(みたま)は世に来るすべての人に光を与え、また御霊はその声を聴くすべての人を照らす。」
ブリガム・ヤング
「ヒンズー教徒はキリストのみたまの光明を得ていると思うか。私は得ていると知っている。」
パーレー・P・プラット
「ムハンマドの教義と標準は腐敗した社会に対して立てられた。」
ジョージ・A・スミス
「ムハンマドは疑いもなく目的をもって神に召された。」
ジョン・テイラー
「キリスト教の黄金律とほぼ同じ道徳上の原則をユダヤ教、ヒンズー教、仏教、ゾロアスター教、神道、儒教、道教も教えている。」(ジョージ・アルバート・スミスも同主旨)。
オーソン・F・ホイットニー
「仏陀も孔子も全能の神の手の中にあって、ある意味主の僕であり、力ある助け手である。」
モーセス・サッチャー(十二使徒)
「孔子の深い思想、高い道徳に感銘を受ける。それは神に霊感された普遍的なものである。」
マシュー・カウリー
「孔子は悔い改めの教義を理解していた。」
ブリガム・H・ロバーツ
「神がこの世に神の心、意志を伝える可能性があるのは、この生ける預言者に限られているとはどこにも記されていない。」
「神はそれぞれの言語で理解できるように、賢者をいろいろな国に起こされる。偉大な教師は神の僕である(これはモルモニズムの考え)。孔子は神の僕であったし、仏陀も霊感された神の僕であった。人々に進むべき道が多少でも分かるためであった。」
ジョン・A・ウィツォー
「どの国においても人々は幸福の道を求め、それを形成してきた。」
ジェームズ・E・タルメージ
「人は、例えば仏教として義の中にあってやはり完全に近づくことができる。仏教の教えの中「マハ―ヤ―ナ」(純粋な道)という高度な自ら選んで歩む姿は、(律法に強いられて従うというのでなく)光明の中を歩み仏となろうとする道で尊敬に値する。」(1905年8月エラ誌)
以上のような識見が多くの指導者によって残されていたことは、「唯一真(まこと)の生ける教会」というテーマに関連して注目に値することではないだろうか。
最後に参考までに、2011/03/11 東日本大震災で被災した日本人について次のように見た邦人指導者がいる。
潟沼誠二
「被災者の秩序の取れた自己抑制的言動、無私の精神による譲り合い、互いを気遣う優しさ、略奪など犯罪行為が起こっていないことは、日本人が神に喜ばれる行いを示したことを現わしている。キリスト教の伝統がほとんどないに等しいところで、コリントI13:4-7のクリスチャンの徳性のほとんどをみごとに表現してみせた。」(「そこが知りたい日本のキリスト教の今」2012年)
なお、教会幹部が説教の中で、また一般の会員が証し会でよくこの教会は「唯一真の教会」である、と信仰告白するが、この表現は聖典の中で教義と聖約1:30に一度出てくるのみである。
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他の進化論などの過去の記事なども拝見しました。聖典は神の言葉であると信じていますし、預言者から公式な宣言がない事に関しては憶測を重ねるだけになるので自分の考えにはできませんが、聖典至上主義に陥らないよう一意見として心に留めておきます。
間もなく伝道に出られるとのこと、元気に有意義な伝道の期間を過ごされますよう祈ります。
自分は比較的中立ですが、このように保守リベラル双方の方々がコメントされている場所があると知れて嬉しいです。反モルモンサイトは個人批判や感情的な意見が多いですし、活発教会員ばかりのディスカッションですと建前の意見でなかなか本音が聞けません。
私たちに与えられている「選択の自由」という賜物を、日本の教会員の多くはまだまだ活用できていないのではないかと思うこの頃です。自分自身も含めて、です。日本人特有の右にならえの精神なのでしょうか?
伝道中も、人を裁かずに、お互いの信仰を尊重していけたらなと思います。
遠い先ですが、伝道帰還後、小著「モルモン教をどう見るか」(せせらぎ出版)を是非手に入れてご覧ください。幸か不幸かなくなる心配はございません、残部多数。(それに各地の図書館にも入っています。)