末日聖徒イエス・キリスト教会は3月1日、四つの標準聖典(聖書、モルモン書、教義と聖約、高価な真珠)の更新版を1980年代初め以来約30年ぶりに公表した。scriptures.lds.org (英語)で見ることができる。更新されたのは主として各章に付けられている前書きであり、研究の手引き、教会歴史に関する説明にも見られる。
末日聖徒の歴史家は新版の人種、多妻に関連した表現がより正確になり、複雑で論争を招いた過去のいきさつが反映されている、と新版が出たことを歓迎している。
末日聖徒でアメリカ宗教史を教えるマシュー・ボウマン教授(バージニア州ハンプデン・シドニー大学)は次のように語っている。「これは全ての宗教がいずれは対処しなければならない性質の事柄である。歴史を神への信仰とどう整合させるかという問題である。この新版の注目すべき改訂点は、末日聖典が産出された背景となる文化と産出にいたる状況を理解することの重要性を強調していることである。過去の歴史について理解が進展し洗練されたものとなっているが、この改訂版はそれを反映している。そしてそれは従來にまして思慮深いモルモニズムが前進していくことを意味している。」
重要な変更が公式の宣言に前書きの追加の形で行なわれている。宣言一に「聖書とモルモン書は、一夫一婦制が神の標準とされた制度であることを教えている」「1890年10月6日をもって教会における多妻は終焉するにいたった」という文言を含む前書きが新たに加えられた。
大きな変更のもう一つは、公式の宣言二に新たに比較的長い前書きがつけ加えられたことであり、そこにジョセフ・スミスがかつて幾人かの黒人に神権を与えたことが明記され、後に黒人に神権を与えなくなったことについて「この排除が何によるか教会の記録は何ら手がかりを残していない」と記している。
高価な真珠「アブラハム書」の前書きでこれまで「ジョセフ・スミスがパピルスから翻訳した」となっていた所は、「霊感された翻訳」(an inspired translation)となっていて、普通の意味の翻訳ではなく霊的な過程を経て得られたものであることを示唆している。
また、新版の教義と聖約では前書きから「教会歴史」の参照が全て姿を消している。
ダイアログ誌のサイト「賛意の表明によって」(By common consent)の2/28付け記事「聖典の前書き変更を読んで - - 公式の宣言二」には、まだ問題が残っていると指摘するコメントもあるけれども、聖典の前書き更新を歓迎する多数のコメントが寄せられている。私も今回の2013年版の登場を歓迎している。この度のことで、理解ある教徒や真面目な研究者の到達している考え方・洞察は常に数十年先んじているように思われた。
[付]小原克博同志社大学教授の次の言葉は教会が変更を加えることの必然性について参考になる。
「教会は置かれている社会的・文化的コンテキストから常にいろいろな問題に直面し、その都度聖典や教会の伝統と照らし合わせて(対話して)倫理的判断を下してきた。そして従来強力な規範となってきた考え方も根本的に問い直されることが生じ得る。」本ブログ2011.07.20付け記事 このように社会の変動に対応して変更を加えない宗教組織はなく、そうしなければ社会で存続していくことはできない。(NJ)
情報源
http://bycommonconsent.com/2013/02/28/groundbreaking-scriptural-heading-changes-official-declaration-2/
http://www.sltrib.com/sltrib/news/55930173-78/church-lds-changes-mormon.html.csp
http://www.lds.org/scriptures?lang=eng
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まだ様々な問題を抱えているようですが、私が教会員でいるうちに、方針転換を見ることができるよう望みます。
つまり、モルモンの会員に求められる、最も初歩の部分が、自分の罪を認め、「悔いる」と言うことです。
罪を認めて、悔いる、と言う行為が無ければ、人は再び罪を犯し、神の道からはずれる事になります。
その原則を教えているはずの教会が、「悔いる」事をしないわけです。
今までも、今回も、何度も、世間の風評を危惧して、教義を改めてきましたが、「改める」は有っても、以前の教会歴史上の教義や事実を、悪いことだった、と認めて悔いる事をしません。
モルモン教会の一番大きな問題は、そこです。
自分たちが教え信じている、教義の根本と、教会の運営姿勢が矛盾しているのです。
改めるべきは、その姿勢です。
こんな改定を、何万回やっても、悔いる事が無ければ、神の目から見て、正しい行い、真実の教会とは認められないでしょう。
何年か前に教会のテキストとして使われていた、「完成への道」を読めば分かります。モルモンが黒人に対して、どのような教義を教えてきたのか。
>「この排除が何によるか教会の記録は何ら手がかりを残していない」と記している。
なんて、よく平気で言えるモンですね・・・。
ではなく、その第二に、ですね。
>「この排除が何によるか教会の記録は何ら手がかりを残していない」と記している。
なんて、よく平気で言えるモンですね・・・。
平気で言えたわけではないでしょう。改訂の背後には保守派を抑えた開明派の勇気と決断があったと思われます。そこでぎりぎりの表現、考え抜かれた最少の文言に帰結していると考えられます。・・そんな筈はない、と以前の大管長会の声明を提示した米国の会員がいました。豚さんと同じ方向からの指摘です。
ただ、私は小原同志社大学教授が書いているように、宗教組織はどれもいずれ時代と社会の変遷に適応していかないといけない、そうでないと存続できないわけで、おおらかに歓迎する、大所高所からの見方もできなければならないと思います。
私も昔はそれが出来たのですが・・・。
長年、モルモンで、「潔癖性」を身にしみこまされてので・・・(笑)
わたしの言いたいのは、モルモン教会の「自己矛盾」と言うことです。
真面目に教義を信じている会員と、それを指導する側との、信頼関係が、成り立つのか?と言う問題です。
人は、見ない様でも見ているものです。
教会の指導者が、本気で向き合ってるかどうかは、自然と会員にも伝わるものです。
世間の風評なんて同でもいいんです。大事なのは、会員と指導者の、心と信仰の問題です。
そして、自分の信仰と神の問題です。
教会を、単なる人の作った組織と考えるのなら、NJさんの御指摘の通りです。
豚の教会ならそれで充分です。
しかし、もし、神の教会なら、それは違うと思います。
自己矛盾が好ましくないこと、会員(及び一般社会)との信頼関係が極めて大切なこと、異議ありません。
(話は変わりますが、私は今、更なる改訂版刊行に際して bishop という訳語についてどうしたものか思案しています。元に戻す機会になればと望むからです。)
ついつい監督と言ってしまいます。改悪はやめてほしいですね。
なぜビショップになったのか、その背景には監督というと指示し、管理する建築の現場監督やスポーツチームの監督が思いうかび、教会の「監督」職には似つかわしくない、愛をもって優しく指導する教会の指導者にはそのイメージを切り離すために音訳してビショップにしようと言う、アメリカ人の地域会長の強い意見があったと理解しています。
当ブログの関連記事に2009.3.31 と 2008.1.29 の記事があります。ご覧ください。
真面目に教義を信じている会員と、それを指導する側との、信頼関係が、成り立つのか?と言う問題です。
教会の教義に自己矛盾があることに、はっきり気づいている教会員はたくさんいないと思います。
矛盾があることに、はっきりは気づかないでも感覚的に気づいている会員は多くいると思います。
私の通っているワードでは、一夫多妻や黒人の神権、教会で使われる用語について気にしている教会員はほとんどいません。
それよりも女性に神権が与えられ、神権につける責任が与えられれば教会は、もっと成長するのに・・・。という意見があります。
考えて見れば、私が1989年~1991年に専任宣教師としてとても真面目に伝道してバプテスマを施した方はみなさん教会に来られなくなりました。拙速バプテスマではなく本当に真面目に教えたのですが、音信普通になった方もおられます。その方々が教会に来られなくなった理由は、黒人問題や、一夫多妻、の問題などではないのです。
宣教師は、夢のような教義を教えて、教会員になれば必ず幸福になれるような錯覚を与えておいて、スーとどこかへ転勤していくわけです。宣教師が悪いとはいえませんが、現在でも不活発会員を増やすために伝道が行われているような現実があります。
神様の教会だからもっときちんとしてほしい。正直で、潔癖であってほしいと私も思います。
もっと大胆に大幅な変更をしないと教会は縮小まっしぐらになると思います
最後の8行に賛同致します。
この変更によって教会員により明確な情報が与えられ、くすぶっていた多くの不毛な論争や誤解に対して終止符が打たれたことで、深い平安と信頼感を感じました。
改めて生ける預言者及び、大菅長会を支持したいと思います。
神権が与えられなくなってからの大管長会声明文や指導者による説明の試みは何件も見つかるわけですが。
その一つが前世における態度や状態が現世の状態を規定することになった、神の計画(イエスを救い主とする)に熱心に賛成しなかった者が黒人など恵まれない人種となった、という説です。
これは、黒人に神権を与えなくなった当時の現状を説明しようと後で加えられたもので、その制度・慣行が始まる理由となったevidenceではない、わけです。
「完成への道」は黒人に神権は与えられなくなってずっと後に出版されています。
バハマさんのような言い方をする人は、教会に通い続けている会員(米国、日本を問わず)にとっては、前世期の人類のように聞こえます。
二点お答えすれば、ジョセフ・フィールディング・スミスはあの本を出した時、大管長ではなかったこと、カインのしるしは肌の色の問題ではなかったということ(今日では神学上の常識)です。反論される前にMF誌をご覧ください。写しを差し上げましょうか。あるいは豚さんからもらってください。