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昔、東京のある神学大学の図書館を訪ねた時、新進の、将来日本の神学界を担う聖書学者として大貫氏の著書を紹介されたことがあった。この大貫隆も若い頃、聖書を理解するのに苦労したと述懐する。その記憶を次のようにまとめている。大貫隆「聖書の読み方」岩波新書2010年より。

1 第一の理由は、聖書全体が単独でそれを通読して読解しようとする読者にはきわめて不親切な書物であること。旧約39書、新約27書は5百年以上の歳月をかけて書かれた文書の集まりで、配列順にしても初めから読み始めることを予測して編纂されたものではなく、現代人は当惑し迷路に迷い込むような方向喪失を味わうことになる。

2 第二の理由は、語り手が多くの場合話の背後に隠れていて、読者はいつ、どこで、誰が、何のために語った(書いた)のかがわからないまま、話の表面だけをたどっていくことになる。しかも、悠久の歴史の流れの中にあって様々な局面で書かれているので、イスラエルの社会にも神の関与の仕方にも変化が生じていて、簡単に言えば神の言動に矛盾が感じられることになる。

3 第三の理由は、聖書は教会が示す解釈によらなければならない、という自己規制が働いて勝手な読み方はできないと思うこと。神の言動が矛盾して見えることも、教会では神の計画の一環と見る「思考の枠組み」のようなもの、「基本文法」とでも呼べるもので調和的に読まれる。それで、自分が聖書を読む時に得られる感想や印象に自信が持てないのである。

学生たちの当惑・質問(その分析を含む)。大貫氏が大学で学生たちに取ったアンケートより。これは日本でキリスト教に改宗した人も初め同じような印象を持つのではないかと思われる。

1) 信仰者が聖書を信じて受け入れる姿も、信仰について語る言葉も外国語の世界に見える。規範の書という読み方以外にまず理解するために読むという読み方があるのではないか。

2) 聖書の言葉であるとして受け入れることを求めるのは、権威主義的に感じられる。聖書の語り手の素性や経験を理解しようとするのは余分なことなのか。

3) 礼拝や講義で取り上げられるのは、一部分であって断片的でしかない。話が飛ぶこともあり、歴史的背景を整理することが困難である。

4) 聖書は堅苦しく、難解である。その世界観に入り込むことができない。[一般にキリスト教徒に対して外の世界は距離を置いて、あるよそよそしさを保って(特別視して)いるようなところがある。初めて読む者はその壁のようなものを感じる。大貫。]

5) 聖書は一般に古典として、要約された物語が紹介される。言い換えると要約的再話で済まされ、実際に直接本文に接することがない。本気で読むことがないのである。一般に語られる時は文脈が無視され、厳密さに欠け、誤解が生じることも出てくる。

6) どこから読めばよいのだろうか、順を追って理解するのが難しい。仔細に見ると、話が前後で矛盾したり、繰り返されたりして(大貫は聖書の「隙間」と呼ぶ)、当惑することになる。

7) 詩文はストーリー性がなく、断章が順不同で並べられていて、読みづらい。(詩篇、イザヤ書など)。多様な主題の詩が並んでいて、意味を読み取ろうとしても途方に暮れることがある。

8) 現代人には異質に見える内容が多い。例えば、1) 「天地創造」は学校教育で習う進化論と矛盾する。2) 神が創った世界になぜ悪が存在するのか。サタンの存在も理解できない。3) 実際にはあり得ない奇跡物語を読むと、聖書のどこまで受け入れて、どこからは作られた話と見ればよいのか分からなくなってしまう。4) 最も頻繁に聞かれたのは、旧約聖書の神が暴力的・独善的で、勝手すぎるという声である。イスラエルの神は戦争に次ぐ戦争を繰り返して、周辺の異民族とその偶像崇拝を殲滅し、土地を奪取していく。このような神と隣人愛を説く神が同じ神とは思えない。

以上の疑問や当惑は無理もないもので、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)も持った見方であり、初読者に限らず普遍的なものであるとし、書物の後半で著者は聖書をどう読めばよいか提案する。以下(二)部。


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