完璧主義者が読むと困惑し、頭をひねるこの言葉はどう受けとめればよいのだろうか。
創世記17:1
主はアブラムに現れて言われた、
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」
マタイによる福音書 5:48
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
創世記17:1, マタイによる福音書5:48に出てくる「全き者」「完全な者」は、能力、知識などの面で完全な状態に達するということを意味していない。
数々の注釈書が述べているように、創世記17:1の「全き者」は「敬虔な正しい生活」のことを指し、P典(祭司文書)に特徴的で6:9にも見られる(「旧約聖書略解」松田明三郎)。マタイ5:48にある「完全な者」は「一般的な意味の卓越さ(の程度)のことを言っているのではなく、イエスの弟子であるという資質(種類)の点で卓越していること」と19世紀に書かれた注釈書は説明している。
聖書の語義を確かめるには、原語が何であるかを知り、その意味を辞書で調べてみることが出発点である。上記旧約の個所で使用されている形容詞「全き」はタミーム תמים で、幾つかあげられている語義のうち「心のまっすぐな、正直な、誠実な、清廉潔白な」が該当する。そして、マタイの方の「完全な」はテレイオス τελειος が原語で、「telos (終わり)に達した」から「十分に成長した、成熟した」の意を読み取ることができる。その際、「程度」を必ずしも問わないでそこに「善、善良」の意義を含めて受けとめることができる、とVine は記している。
参照
Robert Jamieson, A.R.Fausset and David Brown, “Commentary Critical and Explanatory on the whole Bible.” 1871. (www.biblestuytools.com/commentaries/jamieson-fausset-brown)
Benjamin Davies and Edward C. Mitchell, “Compendious and Complete Hebrew and Chaldee Lexicon.” (Student’s Hebrew Lexicon) Kregel Publications 1957
W.E. Vine, “Expository Dictionary of New Testament Words.” Zondervan, 1982
日本基督教団出版局「旧約聖書略解」1957
日本基督教団出版局「新約聖書略解」1968
| Trackback ( 0 )
|
日本語の翻訳ではかなり程遠い語感のまま無理に納得している日本人クリスチャンが相当にいると思っています。
「全き」も語源を紹介いただきありがとうございました。
求められているのは「内なる思いの濃さ」であって、外部からの人事評価のような意味合いとは違うことに納得していますし、そこから人の態度も行動も変わって行くでしょう。「他人からは決して見えない思い」の「重さ」が他事なんだと!