数年前からキリスト教書 愛読者共同サービスセンターから、五社のカタログがまとめて送られてくる。その中から目に留まった5冊を紹介させていただく。
1 北森嘉蔵「宗教改革の神学」新教出版社、2004年。
ルターの神学、カルヴァンの神学、教義学方法論。歴史神学を媒介した組織神学の試みに著者の創見が満ちている。(カタログ)。オン・デマンド・ブック
2 K.G.アッポルド、徳善義和訳「宗教改革小史」教文館、2012年。
ルターに始まり農民戦争、再洗礼派に至る、歴史に決定的な刻印を残した宗教改革運動。そのダイナミズムを最新の研究に基づき、斬新に描く。(カタログ)。
3 ロドニー・スターク、櫻井康人訳「十字軍とイスラーム世界」新教出版社、2016年。
現在広く受け入れられている十字軍理解に異議を唱え、聖地をめぐる真相をさぐる。宗教社会学的視点。
4 E.A.リヴィングストン編、木寺廉太訳「オックスフォード キリスト教辞典」教文館、2017年。
時代の変化やキリスト教界の動向に合わせて、最新の情報が充実。例、生命倫理、同性愛、女性の聖職叙任(神権授与)、臨終者のケア、自死、イスラーム、中国の典礼論争、遠藤周作。(モルモン教も含む。)
5 A.グリューン、村椿嘉信訳「従順という心の病い」株式会社ヨベル、2016年。
重順であるとは「他者の意志への屈服」。この抑圧は自分で考え、判断することを不可能にする。現代に巣食う従順にメスを入れる話題作。絶賛発売中。(カタログ)
私は1,2の宗教改革関連の本に目を通したいと思っている。4の辞典は市の図書館に購入希望を出したい。5の従順を病いとみなしている本も面白そうである。教会の指導者や敬虔な会員が見ると目をむきそうであるが。
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そうですね。 組織からの期待に応えることばかりが人生の最優先になってしまい、発言当時の状況がどんなかを考慮できないのに古い幹部のひとつの発言(例えば召しを断ったら祝福がなくなってしまいます等)が、自分の現実の生活を壊しかけてるのに、何か変だとわからないようになっているとしたら、どこか精神が病んでるのかもしれません。
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=1104
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%BF%83%E3%81%AE
とにかく分かったことは、著者のA.グリュウンがユダヤ人の精神分析、心理学の専門家で大変多作な、評判の著者だということです。軽い気持ちで、目に留まりましたが、油断できない本のようです。
「34 おお、主よ、わたしはあなたを頼ってまいりました。これからもとこしえに、あなたを頼ってまいります。わたしは肉の腕に頼る者はのろわれることを知っているので、肉の腕には頼りません。まことに、人に頼る者、すなわち肉を自分の腕とする者はのろわれます。
35 まことに、わたしは、神は求める者には惜しみなく与えられることを知っています。わたしが道理に外れた求め方をしなければ、わたしの神はわたしに与えてくださいます。それでわたしはあなたに声を上げ、まことに、わたしの神、わたしの義の岩であるあなたに叫び求めます。まことに、わたしの声はわたしの岩であり、永遠の神であるあなたのみもとに、とこしえに上ることでしょう。アーメン。」(2ニーファ4)
「05 わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ており、わたしの腕は民を裁く。もろもろの島はわたしを待ち望み、わたしの腕に頼る。」(同8)
「31 人に頼る者、すなわち肉を自分の腕とする者はのろわれる。すなわち、聖霊の力によって与えられる訓戒ではなく、人の訓戒に耳を傾ける者はのろわれる。」(同28)
「さらに、これらの概念が幅を利かせる日本社会の上に構築された、日本のキリスト教会内では、教会内権威者となってしまった牧師(全員が全員とはいわないし、そうでない牧師や司祭の方を何人もよく存じ上げている)に問答無用で従う「従順な、そして自信のない」信徒がよいとされ(まぁ、それならある牧師にとっての当面は問題は起きない)、信徒の牧師依存、目立つ平信徒の排斥、まさに出る杭は打ってぶっ潰す、とかという病理が一部の教会で生み出されているのではないか、という感想を持った。
なに、まぁ、これは牧師側の責任だけではない。信徒側の責任でもある。信徒が責任を引き受けすぎず、信徒が牧師の言うことを丸呑みし、本来するべき「聖書にたち返って、よしんば頭が悪くても神とともに自分の頭で考える」というめんどくさい作業を面倒くさがってやってないから、こういうことがおきるし、何かあると、すぐに牧師になきつくから、こういうことがおきるのではないか、と思う。
その意味で、われわれは、神から与えられた神のかけがえのない、自分自身の不完全なかたちでの「神のかたち」とどう付き合っていくのか、また、ほかの神が創造された自己とは違う「神のかたち」とどう付き合っていくのか、そして、自分の中に住んでくださっている自己ではない、という意味での、他者としての「神」とどう付き合っていくのか、ということをまじめに問いかけた本だったなぁ、というのが、本書を読んでのまとめである。なお、本文中には、神という語はほとんど見た記憶はないけれども。
」8より