先般、尾道の人からの問い合わせがあり、
「沼隈八社巡りなるものがあったが、そのことについて調べて欲しい」
との依頼があり、お受けして調べてみた。
<調査の経緯>
1.『沼隈郡誌』に記載がないか調査。
2.『備後叢書』の中の「福山志料」に記載が無いか調査。
3.「民俗資料」関係の調査。
4.そのほか、地域に関する諸々資料の調査。
等を調べた結果、何れの資料にも記載が無いことが、判明しました。
途方に暮れてしまい、調べる打つ手が無くなってしまい、
たまたま本会の会費徴集に回っていた会員宅にお邪魔した際に、
この話をお尋ねしたところ、以下の様な話を伺うことができました。
以下、概要を記載致します。
「沼隈八社巡り(別称:ヤハチマン)」について
私が、昭和15年8月(20歳の頃に)武運長久を祈り、沼隈郡内に存在する、
八幡神社に御参りした。
参拝順序は、別段定めが無く、自分の都合の良い順序で回った。
本人が参拝しても良く、本人が出征していて居ない場合には、
家族の者が、参拝しても良かった。
八幡神社に御参りするので、御札などを頂くのではないので、
結果的には、手元には何も残らないことになる。
ただ、このことは、沼隈だけのことかも知れない。
私の場合には、先輩格の方が居られて、その人の先導で
何人かが一緒に回った。とにかく暑かった記憶がある。
その順序は、片山⇒常石⇒草深⇒能登原⇒鞆(祇園社)
⇒田尻⇒水呑⇒熊野へと回った。
水呑から熊野への道は、山を抜けていく道で、時間的には、
早く着いた事を、覚えている。
他の沼隈郡内では、どの様に回ったのかは、解らない。
この行事は、第二次世界大戦の時のみかも知れない。
日清・日露戦争では、聞いていなかった。
ただ、回る神社は、「八幡神社」でなければならなかった。
この6ヶ月後には、入隊して軍役に就いた。
以上が概略です。
(聞き手:鳳来 平成20年5月6日)
○沼隈郡内の八幡神社については、『沼隈郡誌』
「沼隈郡内における八幡神社」P487~ 名著出版 を参照
○「八幡信仰」については、『国史大辞典』第11巻P611 吉川弘文館
を参照してください。
(注意事項として)
八幡神社と銘打っていても、武運長久を祈る場合には、お祭りしている
神様が決まっているので注意が必要とのことでした。
「沼隈八社巡りなるものがあったが、そのことについて調べて欲しい」
との依頼があり、お受けして調べてみた。
<調査の経緯>
1.『沼隈郡誌』に記載がないか調査。
2.『備後叢書』の中の「福山志料」に記載が無いか調査。
3.「民俗資料」関係の調査。
4.そのほか、地域に関する諸々資料の調査。
等を調べた結果、何れの資料にも記載が無いことが、判明しました。
途方に暮れてしまい、調べる打つ手が無くなってしまい、
たまたま本会の会費徴集に回っていた会員宅にお邪魔した際に、
この話をお尋ねしたところ、以下の様な話を伺うことができました。
以下、概要を記載致します。
「沼隈八社巡り(別称:ヤハチマン)」について
私が、昭和15年8月(20歳の頃に)武運長久を祈り、沼隈郡内に存在する、
八幡神社に御参りした。
参拝順序は、別段定めが無く、自分の都合の良い順序で回った。
本人が参拝しても良く、本人が出征していて居ない場合には、
家族の者が、参拝しても良かった。
八幡神社に御参りするので、御札などを頂くのではないので、
結果的には、手元には何も残らないことになる。
ただ、このことは、沼隈だけのことかも知れない。
私の場合には、先輩格の方が居られて、その人の先導で
何人かが一緒に回った。とにかく暑かった記憶がある。
その順序は、片山⇒常石⇒草深⇒能登原⇒鞆(祇園社)
⇒田尻⇒水呑⇒熊野へと回った。
水呑から熊野への道は、山を抜けていく道で、時間的には、
早く着いた事を、覚えている。
他の沼隈郡内では、どの様に回ったのかは、解らない。
この行事は、第二次世界大戦の時のみかも知れない。
日清・日露戦争では、聞いていなかった。
ただ、回る神社は、「八幡神社」でなければならなかった。
この6ヶ月後には、入隊して軍役に就いた。
以上が概略です。
(聞き手:鳳来 平成20年5月6日)
○沼隈郡内の八幡神社については、『沼隈郡誌』
「沼隈郡内における八幡神社」P487~ 名著出版 を参照
○「八幡信仰」については、『国史大辞典』第11巻P611 吉川弘文館
を参照してください。
(注意事項として)
八幡神社と銘打っていても、武運長久を祈る場合には、お祭りしている
神様が決まっているので注意が必要とのことでした。
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