沼隈郷土文化研究友の会

広島県東部に位置する沼隈町は古代より瀬戸内海の中央(ヘソ)に当たり、
その郷土からの情報発信です。

「東田遺跡発掘調査」現地見学会

2009年07月22日 | 発掘調査現地説明会
             『東田遺跡発掘調査』現地見学会

<日時>平成21年7月18日(土)13:31~14:18
<場所>東広島市高屋町郷
<説明員>吉野 さん
<調査主体>(財団法人)東広島市教育文化振興事業団
           東広島市教育委員会
<参加者>約60名
はじめに
  本調査は、au基地局工事に伴って6月から7月半ばまでの予定で発掘調
査を実施。
  「東田遺跡」は、谷が入り組み低丘陵が広がる郷地区の中でも、標高25
0m程の付近で最も高い丘陵に位置している。
 調査地は、東南に面した丘陵の緩やかな斜面で、標高は240~244m
面積は約270?です。
 調査結果は、弥生時代の竪穴住居跡3~4棟、古墳時代の段状遺構と掘立
柱建物跡、平安時代後期の大型の掘立柱建物跡の一部が検出された。



1.弥生時代の遺構
 1)竪穴住居跡
 (1)NO2竪穴住居跡
  2回の立替があり、1回目は直径約6.2m、2回目は直径約7.2mを
  測り、柱は7~8本使用している。
  出土遺物は、弥生土器の甕や壺、砥石などが出土している。
・ 内側の溝は、6.2mでこの地域に於いては通常のサイズで真中に炉、炭
  が沢山出た。
・ 外側の溝は、立替後の溝で、真中の大きい炉になり、柱も外側の柱穴とな
  る。家族が増えて立替を行ったのではないか。砥石は四角く成形されてい
  る。
 (2)NO16竪穴住居跡
  NO2から東へ約5mの地点で見つかった。ほとんどが調査区外となって
  いるため詳細な規模は不明。
  検出部分から推定すると、直径約6m、深さ約80cm、床は「貼り床」
  になっている。
  出土遺物は、弥生土器、柳葉型の鉄鏃が出土している。長さ5cmで石器
 の矢鏃から鉄鏃へとの移り変わりを示している。この当時の弓は丸木の弓を
 使用していて飛距離が出ないために対人用の武器と考えられる。
 *「貼り床」黄色の土を叩き締めて床としている。
 (3)NO17竪穴住居跡
  NO2から南へ約1.5mで見つかった。東側はNO3を建てる際に削ら
  れていて調査で1/4程が見つかった。推定の直径は約6.4m、深さ約8
  0cm、出土遺物は弥生土器が出土している。
  竪穴住居跡3棟とも弥生時代後期のものと考えられる。



2.古墳時代の遺構
1)段状遺構
 (1)NO1段状遺構
  北から南に向かって緩やかに傾斜する斜面を東西16m、南北6mに亘り
 ほぼ平坦に造成した面の北側に溝を廻らす。
  西側には調査区外に広がっていると考えられる。
  平坦面には、柱穴が数多く掘られ、数棟の掘立柱建物が推測出来るが、復
 原可能なものは1棟で1×1間、あるいは1×2間の小規模な南向きの建物
 と考えられる。
  出土遺物は弥生土器、古墳時代の土師器が出土し、中でも古墳時代のもの
 が多く出土している。古墳時代の工房の施設ではないかと考えられる。西側
 の溝より南側で出土している。
 この中には、山陰系の土器も含まれていて山陰側からの交流も考えられる。



3.平安時代以降の遺構
1)掘立柱建物跡
 (1)NO3掘立柱建物跡
  建物跡は、最後列の柱穴4基全てと、その前面側2基を検出している。
 中1間の柱間が3.2m(1丈)、両端の柱間が2.4m(8尺)と狭く
 なっている。中央が広い柱間を持つ建物としては、社寺建築以外にはなく、
 方三間の阿弥陀堂建築に見られる形式である。
  確認のために前面側に試掘溝を掘ったところ推定される位置に柱穴を確認
 し、三間四方の阿弥陀堂建築であることを確認した。
  柱穴の中心から中心の長さ8.1m×8.1m、面積65?の規模で基壇
 面の外側に雨水跡も確認した。60~70cmの深い掘り込みがあり掘立柱
 建物跡でありながら外観は、阿弥陀堂建築となっている。(*1)
  建物の周辺からの出土遺物は、須恵器の碗、皿、杯、甕、土師器の皿、杯
 布目瓦の破片1点、鉄釘も出土している。これらから11世紀頃に中心を持
 つ遺構と考えられる。

(*1)阿弥陀堂建築
  国宝に指定されている阿弥陀堂建築は、礎石造りの建物となっている。今
 回の掘立柱建築は11世紀後半のものと考えられ12世紀の遺物が見つかっ
 ていない点から浄土信仰を地方の武士にも浄土信仰が広がったのではないか。

2)土壙簿
 (1)NO14土壙墓
  NO3の建物跡の北東隅の柱穴の上に掘り込まれた土壙墓。1.3m×
 0.8mの楕円形、深さ約0.5m。
  土壙内は周囲に石を乱雑に並べ、中央に蓋をするように3枚程の平石を
 並べていた。土壙の上には、墓標と思われる平石を立てていたようだが、検
 出時には倒れていた。出土遺物は見つかっていない。
(2)NO53土壙墓
  NO3の建物跡の最後の列から2番目の列の西端の柱穴の上に掘り込まれ
 た土壙墓。地表から浅いところで見つかり平面プランは不明。
  火葬骨と思われる人骨が少量と短刀が出土。土器は見つからず時期は不明。
  阿弥陀動が建っていたことを知っていた人物の墓ではないか。
 阿弥陀堂廃絶からそんなに時間の経っていない時期、平安末~鎌倉時代初
 にかけての墓と考えられる。



4.発掘調査の成果
1)鉄鏃の出土
  弥生時代後期初頭の時期に中国地方で見つかる鉄器としては早い方である。
  東田遺跡での石器は遺構外から出土した石鏃1点のみである。
  石器が使われなくなっている状況から鉄鏃への移行が考えられる。
  柳葉形の鉄鏃は身の長さ5cmの大型品で当時の弓は丸木弓でハゼやマユ
 ミの手頃な太さの丸木を削っただけのもので後世の弓と違って弾力が弱く飛
 距離が短いのが特徴。従って、この様な弓で鉄鏃を射る場合には至近距離か
 らとなり、対人用武器として使用される事が考えられる。
2)平安時代後期の掘立柱建物跡
  平安時代後期から末期にかけて浄土信仰の高まりとともに、全国で盛んに
 建立された阿弥陀堂建築の遺構と考えられる。
  浄土教の始まりは、天台浄土教(比叡山)とされ、円仁が848年に比叡
 山常行三昧堂を建てて不断念仏を行ったのが起源とされている。その後良源
 やその弟子源信らが現れ、貴族の間に信仰が広まっていった。
  西方浄土におられる阿弥陀如来をまつるために堂は東に向いて建てられ方
 一間の母屋の周囲に庇を廻らせた「一間四面堂」形式で屋根は宝形造りとし、
 中央に阿弥陀如来像を安置し、仏像の背後には来迎壁を設けるのが通常とす
 る。
  東田遺跡の掘立柱建物跡については、通常は礎石建物とするところを掘立
 柱建物としている。この事は、建築技術、経費などの面が考えられ略式と言
 えるかもしれない。規模としては、8.1m×8.1m、約65?と推定さ
 れ、阿弥陀堂としては大きい方に属する。瓦の出土が非常に少なく、瓦の使
 用は一部に限られていたと考えられる。
  NO3の建物跡以外の建物跡は見つかっていないが周囲に関連の施設があ
 った事が推測できる。
  律令時代に「高屋郷」から12世紀終り頃には「高屋保」となっている。
  12~13世紀の遺物が出土していないことから平安時代末期までには、
 建物が廃絶したことが窺える。
3)東田遺跡の性格として
  性格付けは難しいが、弥生時代の竪穴住宅跡3棟、古墳時代の段状遺構1、
 平安時代の掘立柱建物跡1棟、それに土壙墓2、と様々な時代の遺構が見つ
 かり連綿として人の営みが続いている事を考えれば、住み易かったのではな
 いか。
                           (文責:鳳来)
<遺跡見学会風景>
 

       (現地説明会風景)


      (現地説明会風景)


 (掘立柱建物跡:西から)



           (掘立柱建物跡:西側部分)


          (竪穴住居跡:NO2)


 (竪穴住居跡:NO17)


       (竪穴住居跡:NO16)


          (段状遺構:南から)


          (出土遺物:短刀)


     (出土遺物:柳葉型鉄鏃)


     (出土遺物:甕 須恵器)


(出土遺物 須恵器 碗・皿)


 (出土遺物:鉄釘)


   (弥生土器:甕)


   (弥生土器:壺)


          (山陰系土器)
                           以上


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