熊野神社を出て、書き留めた住所をたよりに「立石様」に向かいました。
どこかに目印でもあるのかと思いましたが、標識などはまったく出ていません。
奥戸街道から、目指す番地の路地に入りましたが、なかなか見つかりません。その番地を一周する少し手前に児童公園があり、そこに「立石様」はいらっしゃいました。
その番地を左回りしないで、右回りしたら、奥戸街道からすぐのところにあったようです。参道らしきものは、奥戸街道から続いていました。
画像のように小さな鳥居があり、瑞垣で囲まれていますが、本当に小さいのでこれじゃ見つかるわけありません。まして地図もなし番地もわからない夜では・・・。
瑞垣の中をのぞくとごらんのような小さな平べったい石がありました。
江戸時代には、「立石」の名前の通りの60センチほどの大きさの石が立っていたようです。
「江戸名所図会」にも紹介されている名所で、村人がどのぐらいの大きさがあるか周囲を掘ってもきりがなかったそうです。それどころか災いが起きたので、その後は誰も調べなくなったようです。
それなのに、この石には病気に効くとか、明治時代には戦争に出征する人が弾除けにするなど削り取られて小さくなったといいます。削った人には祟りはないのかな?
実際この石は千葉県で産出される凝灰岩の一種で房州石といわれています。
「立石駅」から電車で三駅先にある「柴又駅」近くにある柴又八幡神社の本殿下に古墳があり、石室に房州石が使われているそうです。
柴又八幡神社本殿
古墳を記念して作られた「島俣塚」
柴又は、正倉院御物にある「養老5年下総国葛飾郡大島郷戸籍」の「嶋俣里」であるといわれています。八世紀には大きな集落があったようです。
また「立石様」の付近には「熊野神社古墳」「南蔵院裏古墳」というのがあったそうです。そんなことから「立石様」古墳の石棺の一部ではないかいわれているのもうなずけます。
葛飾区都内でも有数の古墳密集地帯で、六世紀ごろから先進地帯だったのですね。
先に訪れた熊野神社の神体が古代の石棒であることなどこの地域が昔から石の文化に彩られていたのではないでしょうか。
どこかに目印でもあるのかと思いましたが、標識などはまったく出ていません。
奥戸街道から、目指す番地の路地に入りましたが、なかなか見つかりません。その番地を一周する少し手前に児童公園があり、そこに「立石様」はいらっしゃいました。
その番地を左回りしないで、右回りしたら、奥戸街道からすぐのところにあったようです。参道らしきものは、奥戸街道から続いていました。
画像のように小さな鳥居があり、瑞垣で囲まれていますが、本当に小さいのでこれじゃ見つかるわけありません。まして地図もなし番地もわからない夜では・・・。
瑞垣の中をのぞくとごらんのような小さな平べったい石がありました。
江戸時代には、「立石」の名前の通りの60センチほどの大きさの石が立っていたようです。
「江戸名所図会」にも紹介されている名所で、村人がどのぐらいの大きさがあるか周囲を掘ってもきりがなかったそうです。それどころか災いが起きたので、その後は誰も調べなくなったようです。
それなのに、この石には病気に効くとか、明治時代には戦争に出征する人が弾除けにするなど削り取られて小さくなったといいます。削った人には祟りはないのかな?
実際この石は千葉県で産出される凝灰岩の一種で房州石といわれています。
「立石駅」から電車で三駅先にある「柴又駅」近くにある柴又八幡神社の本殿下に古墳があり、石室に房州石が使われているそうです。
柴又八幡神社本殿
古墳を記念して作られた「島俣塚」
柴又は、正倉院御物にある「養老5年下総国葛飾郡大島郷戸籍」の「嶋俣里」であるといわれています。八世紀には大きな集落があったようです。
また「立石様」の付近には「熊野神社古墳」「南蔵院裏古墳」というのがあったそうです。そんなことから「立石様」古墳の石棺の一部ではないかいわれているのもうなずけます。
葛飾区都内でも有数の古墳密集地帯で、六世紀ごろから先進地帯だったのですね。
先に訪れた熊野神社の神体が古代の石棒であることなどこの地域が昔から石の文化に彩られていたのではないでしょうか。
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