正岡子規の生い立ちをたどるコース
ボランティアガイドの皆さまに案内してもらってる途中で教えてもらいました。
ボールのお墓があるよってとってもかわいかったです。
戦前・戦後のプロ野球選手、監督。
通称「猛牛」。
1938年、東京巨人軍に入団。三原脩の後釜として、二塁手として1年目から活躍。
春季リーグで打率.295を残す。1938年秋季には優勝に貢献。
鋭い選球眼の持ち主、右打ち*1の名人*2、二塁守備の名手として鳴らした。
1942年から1945年、応召。
1947年には、チームの主将として、夭逝した黒沢俊夫の背番号4を永久欠番にすることを球団に打診した事で知られる。
1948年に1試合6得点の日本記録を樹立。1949年、打率.307、15本塁打を残し、戦後初の優勝に大きな貢献をした。
その後も第2期黄金時代に貢献。
人望に優れ、ファンにも愛された、1940年代、1950年代のジャイアンツを支えた名二塁手である。
1956年、現役引退。同年、二軍監督に就任。
1959年2月28日、日本プロ野球界で最初の引退試合を行う。
同年、近鉄パールスの監督に転身。球団名を、自らのニックネームにちなんだ「近鉄バファロー」に変更。
チームの状況もあり指導者としては大成せず、1961年に記録した103敗はシーズン最多敗戦のプロ野球記録。
1962年、成績不振により辞任。チームは翌年「バファローズ」に改称。
退団後は東京スポーツの野球解説者を務める。
1980年、野球殿堂入り。
野球の普及活動にも大きく貢献、正岡子規の殿堂入りや松山でのオールスターゲーム開催に貢献した。
2001年、プロ野球マスターズリーグ開幕の始球式を務めた。
2002年12月9日、急性心不全のため自宅で逝去。
カツカレー
1948年当時、銀座でユニフォームを作っている店の近くに洋食屋「グリルスイス」があり、千葉はよくそこで食事をとっていた。
ところが、一流のスポーツ選手と活躍していた千葉にとってはメニューにある「カレー」だけでは少し物足りなかったのだろう。
千葉は、マスターへ「カレーにトンカツを乗せて持ってきてほしい」と頼んだそうである。
マスターは、千葉の頼みを聞くばかりか、それを正式なメニューとして採用し、ここに史上初めて「カツカレー」というものが誕生した。
「カツカレー」は、またたく間に人気メニューとなり、それは全国に広がっていった。
千葉は、「カツカレー生みの親」として現在まで語り継がれている。
現在、「千葉さんのカツカレー」として復刻。
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