当初「おわりに」を書くつもりはなかった。しかし、やはり「やり遂げた!」の達成感で書いてしまった。「大阪24区を歩く」。楽しんでいただけたでしょうか?
月に1~2回のペースで歩いたのですが、ランキングを見ると、毎回、アップした後は、1位になり1週間くらいは上位にランキングされる。それを見て
「あ~、待っててくれてはったんや。」
と感激する。そして、それを過ぎると、また元の順位に。しかし、常に上位にランキングされるページは限られてくる。それが、次の「歩紀」の励みになる。そんな「24回」でした。「生野区」編が、常にランキング上位であったのは「韓流ブーム」の影響だったんでしょうか?!
この24回を「没」になった写真を中心に振り返ってみたいと思います。
なお、ここで言う「他の街」とは、「東京」「横浜」「名古屋」「神戸」のこと。「京都?」。京都は、別格です。足元にも及びません。
大阪市を歩いてまず思ったこと。「歩紀」の早い時期に神社での安全祈願を行った。どのコースも大抵すぐに「神社」がある。神社密度の高さには驚いた。
そして、これまでの「歩紀」で、多くの郊外の神社を訪ねたが、ほとんどの神社は「手水舎」は涸れ、祭りの時にしか「神職」さんは来ないのか、社務所は扉が閉ざされていた。しかし、大阪市内の神社の多くは、水道水とはいえ「手水舎」には満々と水が張られている。
また、奥の住居におられるのだろうが、社務所は常に開放され、「お札」「お守り」「お祓い」などに応じられるようになっていた。
「天王寺区」編では、すぐに神社がなかったので「お地蔵さん」での祈願となったが「地蔵尊」もいたるところに祀られていた。古い、信仰の街だ。
「神社」といえば「祭」。これだけ神社が多いのだから、いたるところでお祭りが行われる。そして、その「主役」がだんじり(地車)だ。「だんじり」と言えば「泉州」を思い浮かべるが、大阪市内にも多くの「だんじり」がある。
これは、「大阪」という街が、他の街に比べて歴史が深いということだろう。なんたって「平城」「平安」の前から「都」があったのだから。「記紀」に出てくる地名や旧跡が方々にあるのだ。
古いと言えば「古墳」。市内に多くの「古墳」があるのも他の街では見られない。
市内の「4大古墳」と呼ばれる「御勝山古墳」「茶臼山古墳」「帝塚山古墳」「聖天山古墳」。「聖天山古墳」は「円墳」。それ以外は「前方後円墳」だ。他の街で「前方後円墳」が、街の真ん中に横たわっているところがあるだろうか。
そして大阪は、「古代朝鮮」とも深いつながりが。「許曽」「須牟地」は、古代「新羅」語だと言われる。
「百済」が堂々と存在する。
また、「古代朝鮮」とは直接関係はないのだろうが「在日」の存在。かつて日本が「朝鮮半島」を統治していた名残である。しかし、大阪に住んでいて感じることは、「在日」の人たちとは一定の距離を保ちながらも「共存」してきたように思う。ブームにより「接近」したり、ナショナリズムとイデオロギーで「衝突」を繰り返すのではなく、100年以上「共存」してきたことは事実だと思う。
話は変わる(戻る)が、私の目的は「歩紀」。歩くことだ。その過程で多くの「街並み」と出会った。中でも「古い街並み」。
おそらく日本では「米」と「漁」を中心に「まち」が発達してきたのだろう。「狩猟」「牧畜」では「ムラ」は生まれても「まち」は生まれないと思う。大阪には、多くの「新田」が開拓された。
市内には「新田」に関する多くの史跡や家屋が残る。
ただ、多くの水田は開発とともに失われ、今では市の周辺である「鶴見区」「東住吉区」「平野区」などにわずかに残るだけだ。
「新田」を中心に多くの「まち(街)」が生まれた。
そして、それらを結ぶ道が生まれる。「街道」だ。
これらが「古い街並み」を形成する。
時代とともに「街」は進化する。「明治」に入り大きく変貌する。これまでの木造建築に変わって多くの「煉瓦」「石」造りの建物が生まれる。それらは、時が過ぎ「レトロ」建築物と呼ばれる。
「横浜」「神戸」同様、大阪市にも多くのレトロ建築物が残る。
明治から大正時代にかけ多くの西洋式建造物が大阪市に建てられた。
「登録有形文化財」と呼ばれる歴史的な建造物は、全国で大阪が最も多いと言われる。
そして多くの「企業」が大阪市に誕生する。東京には行かず大阪市に本社を置く企業も多い。
また、多くの「学校」も誕生した。ただ、少子化の影響だろうか「共学化」「進学に特化した特進科の設置」「短大の4年制化」などにより名称が変わり、今の校名ではかつての校名がわからない。特に受験生の子どもを持たない私たちの年代では。
古代から脈々と歴史を刻む大阪市だが、私の「歩紀」は、どちらかといえば「昭和発見の旅」だったかも知れない。
「昭和」。つい最近の時代だ。歴史的な価値は少ないかも知れないが、なぜか心を揺さぶる。歴史的な建造物や明治時代の建物よりも「昭和」に哀愁を感じる。
特に「昭和」を演出するのは「お米屋さん」「酒屋さん」「散髪屋さん」「お風呂屋さん」「タバコ屋さん」など個人経営のお店たちだ。
それに加えて「町家」と呼ばれる家屋。まだまだ大阪市にはたくさん残る。
特に「長屋」。
そして「アパート」「文化住宅」と呼ばれる集合住宅。
結構、見逃せないのが大阪府警の「警ら連絡所」や「交番」。
そして「消防署」。
近代の象徴であったにもかかわらず「街」から消えていった「鉄道」の跡。
そして、毎回の「歩紀」で楽しみにしていた「昼食」。私の好みではあるが、多くの「洋食屋さん」を訪ねた。
「食い倒れ」と呼ばれる大阪であるが、伝統的な料理だけではない。たくさんの「洋食」をたべたなぁ。みな「昭和」の味だ。
そして「お好み焼き」。大阪では「こんなところに?」というような町中に「お好み焼き屋さん」が存在する。喫茶店よりも多いのではないだろうか?
というよりも、大阪では「お好み焼き屋さん」と「喫茶店」の違いは、非常に「曖昧」だ。
「うどん屋さん」との違いも「曖昧」なようだ。
大阪では、「お好み焼き」だって「洋食焼き」と呼ばれる。ソースをかければキャベツでも何でも「洋食」になる。コテコテの「昭和」だ。
一方、地理的に見た大阪市は、東京が「四谷」「渋谷」「世田谷」というように「谷間」に発達したの街であったのに対し、「難波」「浪速」と呼ばれるように「波」つまり海辺に発達した街であるということだ。
特に「淀川」「大和川」という2つの川の「中洲」に発達した街だ。
そのため「八百八橋」。最近では「東洋のベニス」などと呼ばれる。今でも多くの橋が渡り、「渡し船」が市民の足として運行されている。
「漁港」もいくつか存在する。市内には、統計上76人の「漁業従事者」が存在する。
「漁業協同組合」もある。
しかし、沿岸漁業ではなく「漁場」は専ら「淀川」だ。
沖積平野に発達した「街」であるため、他の街に比べ「坂」というものがほとんどない。唯一「坂」があるのは、「上町台地」と呼ばれる高台くらいだ。
ここは、かつての海ではなく「半島」であった。
そのような地理的条件のため、ちょっとした「盛土」があれば「山」と呼ばれる。「低山」が多いのも大阪市の特徴だ。
先ほど紹介した「古墳」でさえ、大阪市では、「塚」ではなく「山」と呼ばれるのだ。
色々と歩いてきたが「負」の産物も多い。「防潮扉」。高度成長に痛めつけられた大阪市の痛々しい姿だ。海よりも低いところで多くの人が暮らす。
「あいりん地区」。このような地域は他にはないだろう。
「戦跡」。「慰霊碑」や「供養塔」ではなく、実物が戦争の歴史を後世に伝える。
「疎開」などという言葉も残る。ただ、これらは後世(未来)に伝える重要なメッセージ。決して「負」ではないのかも知れない。
そして「旧遊郭」。かつての「赤線」は、「風俗街」として現在も全国に残る。しかし、これほどの大きな規模で「堂々」と残るのは大阪市くらいだろう。
「街娼」という言葉が残る街が他にあるだろうか。
しかし、大阪市の人々は元気に暮らしている。その象徴が「アーケード街」だ。
どこのアーケードでも見られた「練り物屋さん」。
残念ながら不況に押されて「シャッター街」になっているところも多く見られた。
しかし、「スーパー」や「百貨店」「ショッピングモール」ができようとも「アーケード」は続く。
そして、そこには「昭和」が息づく。あの厳しくも華やかな時代「昭和」が。
平成25年7月の「旭区」から平成27年3月の「西成区」まで。この間に失われたものも多い。例えば、貨物線と併走する「赤川仮橋」。城東貨物線の複線化に伴い、平成25年10月、姿を消した。
そして平成26年3月7日早朝の大火により消滅した「ションベン横丁」。
この他にも多くのレトロ建造物や町家が消えているのだろう。ただ、維持費も大変だと思う。そんなことにはお構いなしの勝手な感想で申し訳ない。
しかし、新しいものもどんどんと生まれている。「あべのハルカス」もそうだ。大阪は、どんどん成長しているのだ。
某紙の朝刊や夕刊で同じようなシリーズをしていて若干焦った。が、私の目的は「観光」でも「歴史探訪」でもない。「歩紀」。これからもどんどん歩き続けるぞ。
ほな、さいなら。
月に1~2回のペースで歩いたのですが、ランキングを見ると、毎回、アップした後は、1位になり1週間くらいは上位にランキングされる。それを見て
「あ~、待っててくれてはったんや。」
と感激する。そして、それを過ぎると、また元の順位に。しかし、常に上位にランキングされるページは限られてくる。それが、次の「歩紀」の励みになる。そんな「24回」でした。「生野区」編が、常にランキング上位であったのは「韓流ブーム」の影響だったんでしょうか?!
この24回を「没」になった写真を中心に振り返ってみたいと思います。
なお、ここで言う「他の街」とは、「東京」「横浜」「名古屋」「神戸」のこと。「京都?」。京都は、別格です。足元にも及びません。
大阪市を歩いてまず思ったこと。「歩紀」の早い時期に神社での安全祈願を行った。どのコースも大抵すぐに「神社」がある。神社密度の高さには驚いた。
そして、これまでの「歩紀」で、多くの郊外の神社を訪ねたが、ほとんどの神社は「手水舎」は涸れ、祭りの時にしか「神職」さんは来ないのか、社務所は扉が閉ざされていた。しかし、大阪市内の神社の多くは、水道水とはいえ「手水舎」には満々と水が張られている。
また、奥の住居におられるのだろうが、社務所は常に開放され、「お札」「お守り」「お祓い」などに応じられるようになっていた。
「天王寺区」編では、すぐに神社がなかったので「お地蔵さん」での祈願となったが「地蔵尊」もいたるところに祀られていた。古い、信仰の街だ。
「神社」といえば「祭」。これだけ神社が多いのだから、いたるところでお祭りが行われる。そして、その「主役」がだんじり(地車)だ。「だんじり」と言えば「泉州」を思い浮かべるが、大阪市内にも多くの「だんじり」がある。
これは、「大阪」という街が、他の街に比べて歴史が深いということだろう。なんたって「平城」「平安」の前から「都」があったのだから。「記紀」に出てくる地名や旧跡が方々にあるのだ。
古いと言えば「古墳」。市内に多くの「古墳」があるのも他の街では見られない。
市内の「4大古墳」と呼ばれる「御勝山古墳」「茶臼山古墳」「帝塚山古墳」「聖天山古墳」。「聖天山古墳」は「円墳」。それ以外は「前方後円墳」だ。他の街で「前方後円墳」が、街の真ん中に横たわっているところがあるだろうか。
そして大阪は、「古代朝鮮」とも深いつながりが。「許曽」「須牟地」は、古代「新羅」語だと言われる。
「百済」が堂々と存在する。
また、「古代朝鮮」とは直接関係はないのだろうが「在日」の存在。かつて日本が「朝鮮半島」を統治していた名残である。しかし、大阪に住んでいて感じることは、「在日」の人たちとは一定の距離を保ちながらも「共存」してきたように思う。ブームにより「接近」したり、ナショナリズムとイデオロギーで「衝突」を繰り返すのではなく、100年以上「共存」してきたことは事実だと思う。
話は変わる(戻る)が、私の目的は「歩紀」。歩くことだ。その過程で多くの「街並み」と出会った。中でも「古い街並み」。
おそらく日本では「米」と「漁」を中心に「まち」が発達してきたのだろう。「狩猟」「牧畜」では「ムラ」は生まれても「まち」は生まれないと思う。大阪には、多くの「新田」が開拓された。
市内には「新田」に関する多くの史跡や家屋が残る。
ただ、多くの水田は開発とともに失われ、今では市の周辺である「鶴見区」「東住吉区」「平野区」などにわずかに残るだけだ。
「新田」を中心に多くの「まち(街)」が生まれた。
そして、それらを結ぶ道が生まれる。「街道」だ。
これらが「古い街並み」を形成する。
時代とともに「街」は進化する。「明治」に入り大きく変貌する。これまでの木造建築に変わって多くの「煉瓦」「石」造りの建物が生まれる。それらは、時が過ぎ「レトロ」建築物と呼ばれる。
「横浜」「神戸」同様、大阪市にも多くのレトロ建築物が残る。
明治から大正時代にかけ多くの西洋式建造物が大阪市に建てられた。
「登録有形文化財」と呼ばれる歴史的な建造物は、全国で大阪が最も多いと言われる。
そして多くの「企業」が大阪市に誕生する。東京には行かず大阪市に本社を置く企業も多い。
また、多くの「学校」も誕生した。ただ、少子化の影響だろうか「共学化」「進学に特化した特進科の設置」「短大の4年制化」などにより名称が変わり、今の校名ではかつての校名がわからない。特に受験生の子どもを持たない私たちの年代では。
古代から脈々と歴史を刻む大阪市だが、私の「歩紀」は、どちらかといえば「昭和発見の旅」だったかも知れない。
「昭和」。つい最近の時代だ。歴史的な価値は少ないかも知れないが、なぜか心を揺さぶる。歴史的な建造物や明治時代の建物よりも「昭和」に哀愁を感じる。
特に「昭和」を演出するのは「お米屋さん」「酒屋さん」「散髪屋さん」「お風呂屋さん」「タバコ屋さん」など個人経営のお店たちだ。
それに加えて「町家」と呼ばれる家屋。まだまだ大阪市にはたくさん残る。
特に「長屋」。
そして「アパート」「文化住宅」と呼ばれる集合住宅。
結構、見逃せないのが大阪府警の「警ら連絡所」や「交番」。
そして「消防署」。
近代の象徴であったにもかかわらず「街」から消えていった「鉄道」の跡。
そして、毎回の「歩紀」で楽しみにしていた「昼食」。私の好みではあるが、多くの「洋食屋さん」を訪ねた。
「食い倒れ」と呼ばれる大阪であるが、伝統的な料理だけではない。たくさんの「洋食」をたべたなぁ。みな「昭和」の味だ。
そして「お好み焼き」。大阪では「こんなところに?」というような町中に「お好み焼き屋さん」が存在する。喫茶店よりも多いのではないだろうか?
というよりも、大阪では「お好み焼き屋さん」と「喫茶店」の違いは、非常に「曖昧」だ。
「うどん屋さん」との違いも「曖昧」なようだ。
大阪では、「お好み焼き」だって「洋食焼き」と呼ばれる。ソースをかければキャベツでも何でも「洋食」になる。コテコテの「昭和」だ。
一方、地理的に見た大阪市は、東京が「四谷」「渋谷」「世田谷」というように「谷間」に発達したの街であったのに対し、「難波」「浪速」と呼ばれるように「波」つまり海辺に発達した街であるということだ。
特に「淀川」「大和川」という2つの川の「中洲」に発達した街だ。
そのため「八百八橋」。最近では「東洋のベニス」などと呼ばれる。今でも多くの橋が渡り、「渡し船」が市民の足として運行されている。
「漁港」もいくつか存在する。市内には、統計上76人の「漁業従事者」が存在する。
「漁業協同組合」もある。
しかし、沿岸漁業ではなく「漁場」は専ら「淀川」だ。
沖積平野に発達した「街」であるため、他の街に比べ「坂」というものがほとんどない。唯一「坂」があるのは、「上町台地」と呼ばれる高台くらいだ。
ここは、かつての海ではなく「半島」であった。
そのような地理的条件のため、ちょっとした「盛土」があれば「山」と呼ばれる。「低山」が多いのも大阪市の特徴だ。
先ほど紹介した「古墳」でさえ、大阪市では、「塚」ではなく「山」と呼ばれるのだ。
色々と歩いてきたが「負」の産物も多い。「防潮扉」。高度成長に痛めつけられた大阪市の痛々しい姿だ。海よりも低いところで多くの人が暮らす。
「あいりん地区」。このような地域は他にはないだろう。
「戦跡」。「慰霊碑」や「供養塔」ではなく、実物が戦争の歴史を後世に伝える。
「疎開」などという言葉も残る。ただ、これらは後世(未来)に伝える重要なメッセージ。決して「負」ではないのかも知れない。
そして「旧遊郭」。かつての「赤線」は、「風俗街」として現在も全国に残る。しかし、これほどの大きな規模で「堂々」と残るのは大阪市くらいだろう。
「街娼」という言葉が残る街が他にあるだろうか。
しかし、大阪市の人々は元気に暮らしている。その象徴が「アーケード街」だ。
どこのアーケードでも見られた「練り物屋さん」。
残念ながら不況に押されて「シャッター街」になっているところも多く見られた。
しかし、「スーパー」や「百貨店」「ショッピングモール」ができようとも「アーケード」は続く。
そして、そこには「昭和」が息づく。あの厳しくも華やかな時代「昭和」が。
平成25年7月の「旭区」から平成27年3月の「西成区」まで。この間に失われたものも多い。例えば、貨物線と併走する「赤川仮橋」。城東貨物線の複線化に伴い、平成25年10月、姿を消した。
そして平成26年3月7日早朝の大火により消滅した「ションベン横丁」。
この他にも多くのレトロ建造物や町家が消えているのだろう。ただ、維持費も大変だと思う。そんなことにはお構いなしの勝手な感想で申し訳ない。
しかし、新しいものもどんどんと生まれている。「あべのハルカス」もそうだ。大阪は、どんどん成長しているのだ。
某紙の朝刊や夕刊で同じようなシリーズをしていて若干焦った。が、私の目的は「観光」でも「歴史探訪」でもない。「歩紀」。これからもどんどん歩き続けるぞ。
ほな、さいなら。