「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

桜咲く「時のまち」明石を歩く

2018-03-31 21:18:41 | 日記
訪問日:平成30年3月31日(土)
出 発:山陽電車「人丸前駅」
到 着:JR「朝霧駅」

 兵庫県明石市は、日本の標準時「子午線」が走ることから「時のまち」と呼ばれている。また、信州松本からお国替えにより明石藩主となった小笠原忠真(ただざね)によって元和5(1619)年、築城され「日本名城100選」にも選ばれている「明石城」の城下町でもある。桜の季節、そんな明石のまちを歩いて見た。
 市街地を歩くので給水・トイレには困らない。


 今日のスタートは、山陽電車「人丸前駅」。明石には、「大阪駅」からJR山陽本線に乗れば直通で来られるのだが、途中、JR「舞子駅」で山陽電車「舞子公園駅」に乗り換え、約1時間10分(990円)かけてやって来た。その理由は、「人丸前駅」が東経135度つまり「子午線」の真上に位置するからだ。


 「人丸前駅」のホームには、この後訪れる「明石市立天文科学館」へ向けて「子午線」が引かれている。


 午前10時10分、「人丸前駅」をスタート。改札を出て、まず右へ。正面の交差点の信号を渡る。


 すぐ左に一方通行の細い路地があるので、逆行して5~60mほど歩くと小さな神社が現れる。


 「腕塚神社」だ。源平合戦で敗れた平清盛の末弟「平忠度(たいらのただのり)」が、追っ手である源氏の武将・岡部六弥太に切り落とされた右腕を埋めた場所に建立されたと伝わる。忠度の霊を慰めるとともに、今日一日の安全を祈願しよう。


 参拝を終え、先ほどの「人丸前駅」前まで戻り、道路の右側をガード(北)に向かって進むと、山陽電車と並んで走るJR山陽本線のガード下にふたつの小さな石碑が並ぶ。


 そういうことらしい。


 ガードを抜けてJR沿いに100mほど進めば、浄土宗「長寿院」への参道が現れる。

 
 右に曲がり、幼稚園前を左に進めば山門。


 その奥に「明石藩主松平家墓所」。


 素晴らしい竜の彫刻が彫られた「霊廟屋」は、16代藩主・松平慶憲が建てたといわれる。8代・松平直明から15代・松平斉宜までの墓が祀られている。


 参拝を終え、元のガードまで戻り左へ。70mほどで道端に「馬塚碑」。「平忠度」の甥である「平経正」の馬が埋められたところと伝えられている。


 「明石市立天文科学館」の手前に「弥栄(いやさか)の門」。「長寿院」の東門だ。


 「長寿院」の駐車場のすぐ北には、「明石市立天文科学館」。子午線上に昭和35年6月10日の「時の記念日」に開館。右のドームはプラネタリウム。塔の上の大時計が日本の標準時を刻む。


 子午線表示上には、天智天皇の漏刻(水時計)のレプリカ。


 入館料700円を払って中へ。2階は「プラネタリウム」。旧東ドイツのカールツァイス・イエナ製で現役としては、日本最古のものだという。


 3階は、天文に関する展示室になっているようだ。


 年や時刻を表す「十二支」は方角も表し、真北を示す「子」と真南を示す「午」を一直線で結ぶことから「子午線」と呼ばれるそうだ。


 13階と14階は「展望室」。明石市内はもとより「明石海峡大橋」や「淡路島」まで望める。そして最上階は、40cmの反射望遠鏡がある天文台となっている。


 足早に見学を済ませ外へ。すぐ北に「柿本神社」。
 
  
 鳥居をくぐり、右へ進めば「人丸山公園」。明石のまちが一望できる公園で、桜の名所としても有名。
 

 園内には「柿本人麻呂」の歌碑が建つ。
 

 鳥居まで戻り階段を上れば、その「柿本人麻呂」をご祭神として祀る「柿本神社」が。学問・文学の神様として崇敬されている。
 

 「柿本神社」の西隣には「月照寺」。曹洞宗の寺院で、元和5年の明石城築城に伴い、「柿本神社」とともにここへ移築されたという。
 

 「柿本神社」「月照寺」と「天文科学館」との間にある展望台の一角に「蛸壺塚」。松尾芭蕉が月夜に照らされた海の底で、捕らえられたことも知らず蛸壺の中に潜むタコの哀れさを詠んだ「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」の句碑らしい。
 

 その隣には、球の上に赤とんぼを配した「赤とんぼの標示柱」。市内にいくつかある子午線標識のひとつだ。
 

 「赤とんぼの標示柱」前の石段を下りていこう。
 

 前の石段を下りていくと「亀の水」。「人丸山」の湧き水で、西の参道の手水鉢として設けられたそうだ。
 

 「長寿の水」とも言われる霊水である。
 

 石段を上り、元の道へ戻る。この静かな道は「時のみち」というらしい。
 

 殉職警察官の慰霊碑前を通り過ぎる。
 

 道なりに進むと日蓮宗「本松寺」。ここには、宮本武蔵作庭といわれる「枯山水の庭」があるそうだが、庭園入口の裏木戸が閉まっていた。
 

 お寺の方に声をかけると鍵を開けてくれたので中へ入る。これがその庭だ。
 

 「本松寺」の先には「妙見社」。
 

 「本松寺」の移築に際して、石田三成の家臣・島左近の守本尊である妙見大菩薩を祀ったのが始まりといわれる。
 

 「妙見社」の西隣には「上の丸教会」。明治39年、アメリカ人宣教師・クーパーが造ったといわれるプロテスタント教会。窓のステンドグラスはフランス製だそうだ。昭和55年に改修されている。
 

 十字架の下には「日時計」。明石市内ではよく「日時計」を見かける。そうか、ここの太陽の傾きが日本の標準なんだ。
 

 その隣には、日蓮宗「大聖寺」という寺院。「本松寺」の檀家が作った梅林に、日露戦争の戦没者らを祀るため明治41年に建てられたという。
 

 「時のみち」の最後は「明石神社」。9代城主・松平直常が、松平家の先祖である徳川家康、松平直良、松平直明を祀ったのが始まりと言われる。
 

 元々、明石城内にあったものが、明治32年、この場所に移された。改築中なのか仮神殿のようになっていた。
 

 参拝後、「明石市立文化博物館」の北側を通り、「明石公園」の出入口へ。「明石城」を中心として作られた都市公園で、園内には、芝生公園や森林、池のほか多くのスポーツ施設も建てられている。
 

 石垣を通り過ぎれば左に「東丸跡」。森林公園になっているようだ。
 

 「東丸跡」を後にし、右に見える「自転車競技場」の前を抜けて公園の奥(北)へと進む。
 

 あかしふるさと図書館を過ぎ、県立図書館の前には「明石空襲の碑」。明石市は、昭和20年に入り6回の空襲を受け、約1500人の方が亡くなったという。
 

 公園を時計と反対方向に回る。
 
 
 「明石城」を中心とした「明石公園」は、「全国さくら100選」にも選ばれている。
 

 せせらぎを渡れば「芝生公園」。
 

 「剛ノ池」に沿って進む。
 

 「アサダスタジアム」という陸上競技場を過ぎれば、池の南側で左に曲がり、城郭の中心部へと進む。
 

 「本丸跡」も公園になっている。
 

 「本丸跡」を左に見ながら進んで行けば、右に「天守台」。
 

 築城当時、戦のない平和な時代であったため天守閣は建造されなかった。別名「喜春(きはる)城」と称される。来年が「築城400年」だ。
 

 天守閣に代わって城内には20もの櫓が建てられたが、現存するのは、この「坤(ひつじさる)櫓」と「巽櫓」だけだ。
 

 「坤櫓」は、天守閣に代わる働きをしたという立派な櫓だ。
 

 ちょうど「坤櫓」が無料公開されていた。ラッキー。
 

 「坤櫓」内からもう一つの現存する「巽櫓」を望む。「天文科学館」とツーショットだ。
 

 「巽櫓」も立派だな。
 

 「二の丸」前の階段を下っていく。下から眺める石垣が立派だ。
 

 公園の正面出入口方向に進んでいく。振り返れば「坤櫓」(左)と「巽櫓」(右)が。
 

 そして左には剣豪・宮本武蔵が作庭した「武藏の庭園」。宮本武蔵は、小笠原忠真とともに明石の「町割り」をしたと伝えられる。
 

 庭園内は、花見客で一杯だ。


 城外に出れば、左にお堀を背景に「中部幾次郎翁銅像」が立つ。一代で「大洋漁業」を立ち上げ「水産王」と呼ばれた明石市出身の人物らしい。


 一旦、お堀沿いに西へ進み、ホテルを過ぎる。


この辺りには、明石藩士らの屋敷が並んでいたそうだ。


 現存するのはこの「織田家長屋門」だけである。


 同じ道を東に戻り、JRと山陽電車のガードをくぐって「明石駅」の南側に出る。


 駅前を南に進み「大明石町1」交差を過ぎて左へ。そこは「魚の棚商店街」。「うおんたな」と呼ぶ。
 

 明石城築城以来、約400年の歴史を有する商店街で、明石沖で獲れた「明石鯛」や「明石だこ」など新鮮な魚介類が並ぶ。
 
 
 明石海峡で揉まれた鯛は、身が引き締まって美味しいそうだ。
 

 時間は、午後0時40分。名物「玉子焼」の店はどこも長蛇の列。「あかし亭」で昼食としよう。
 

 「たこめし(漁師汁・イカナゴの小鉢付き)」(980円)を注文。
 

 食事を終え、商店街を抜けて「明石駅前」交差から下ってきた大通りを南に。次の交差点を右に曲がる。この道は「旧山陽道」だ。すぐ左には「明石ほんまち三白館」。大正時代に賑わった「三白亭」という寄席が、戦後、映画館を経て、平成27年12月に大衆演劇場としてリニューアルオープンした。
 

 「本町2」交差に出れば左折する。300mほど進めば左に「岩屋神社」。
 

 成務天皇13(143)年創建と伝わる古社で、明石城主の産土社として崇敬を集めたという。
 

 別名「岩屋エビス」と呼ばれる。
 

 参拝後、道路を渡り、元の方向へ戻れば、すぐ左に天台宗「長林寺」。霊亀年間(715~717年)に創建された伝わる古いお寺である。境内は荒れており、石柱に刻まれた「天然記念物龍燈の松」は発見できなかった。
 

 そのまま北に歩き、次の路地を左に曲がれば浄土宗「本誓寺」。
 

 これから歩く所は、城下町として多くの神社仏閣が並ぶ。ただ、建物の建て替えが進み、城下町らしい風情は、あまり感じられない。
 

 「本誓寺」西側の四つ角を右(北)に折れれば真言宗御室派「宝林寺」。ご本尊の「木造聖観音立像」は、兵庫県指定文化財に指定されている。
 

 西隣には、臨済宗妙心寺派「龍谷寺」。
 

 「金比羅堂」があり地元では「金比羅さん」として親しまれているそうだ。
 

 そのまま西に進めば日蓮宗「本立寺」。元和3(1617)年、初代明石城主・小笠原忠真とともに信州から移ってきたという。
 

 山門の右脇には、こんなものが。
 

 「本立寺」南側の路地を西へ歩く。公園を過ぎれば、目の前に「善薬寺」。「善薬寺」とは、天台宗「戒光院」「圓珠院」「實相院」の総称である。かつては、17院あったといわれる。
 

 「戒光院」は、源氏物語ゆかりの地で「明石入道・浜の館」があったところと伝わる。
 

 境内には「魚供養像」。私は魚が好物なので、書かれてあったとおり「観音様」の足下にある魚に水をかけて供養しておいた。
 
 
 すぐ北には「圓珠院」。「戒光院」からは、奥に見える通用門でつながっている。
 

 ここにも宮本武蔵作庭の「枯山水の庭園」がある。武藏は、枯山水が好きなんだな。
 

 その南には「實相院」。
 

 「戒光院」と「實相院」の間を進んでいく。
 

 突き当たりに浄土宗「無量光寺」。光源氏がお月見をしたお寺として知られる。
 

 山門の彫刻は、名工・左甚五郎の作と伝わるが、これだろうか。特に案内表示はなかった。
 
 
 山門前の「蔦の細道」は、光源氏が「戒光院」の「浜の館」に通った道だといわれる。
 

 「無量光寺」から西に進み、「明石川」に突き当たって左折。公園沿いに歩いて2つ目の辻を左に曲がれば「伊弉諾神社」。
 

 「伊弉諾」とは、日本書紀の表記。古事記では「伊邪那岐」と表記される。「イザナギノミコト」を祀る。
 

 そのまま東へ進めば「伊弉冉神社」。
 

 古事記では「伊邪那美」。「イザナギノミコト」の妻「イザナミノミコト」を祀る。高天原から降臨し、「国づくり」「神づくり」に励んだ「夫婦神」を祀る神社が並ぶ。
 

 「伊弉冉神社」の西側の四つ辻を左に曲がり、突き当たりを右折すれば「蛭子神社」という小さなお社が建つ。この後「蛭児神社」ともうひとつの「蛭子神社」、「前浜町恵比寿神社」と回る。
 

 来た方向に100mほど戻れば「蛭児神社」。「蛭子」も「蛭児」も「ひるこ」または「えびす」と読む。
 

 50mほどさらに進めば左奥に「御旅神社」。由緒は不明だが、桜がきれいだった。
 

 そして次の角には、2つ目の「蛭子神社」。「ひるこ」とは、伊弉諾と伊弉冉の間に最初に産まれた神である。不虞であったことから葦舟に乗せられて海へ流されたが、流れ着いた場所で「えびす・恵比寿・恵比須・戎」つまり「えべっさん」として祀られたという「えびす伝説」が各地の海辺に残る。
 

 さらに東へ進む。右の海沿いには、造船所や釣り船屋が並ぶ。城下町というより港町だな。
 
 

 突き当たりを左に曲がれば正面に先ほどお参りした「岩屋神社」が見えるが、すぐ左に「前浜町恵比寿神社」。「明石」は、港町として栄えたため、「海」「航海」の神様である「えびす様」が多く祀られているのだろう。
 

 参拝を終え、真っ直ぐ進むと海に突き当たる。「明石港」だ。港の入口に佇む「旧波門崎燈籠堂」。
 

 明暦3(1657)年に築かれた石燈籠。現存する石造りの燈台としては日本最古のものらしい。
 

 「旧波門崎燈籠堂」の裏には、古い石組みの埠頭が残る。「明石港」は、かつて本州と淡路島を結ぶ主要港として賑わったが、「明石海峡大橋」の開通とともに今はひっそりとしている。
 

 しかし、漁港としては健在のようだ。
 

 港に沿って進むと「淡路ジェノバライン待合所」。唯一、淡路島の「岩屋港」との間を結ぶ連絡船だ。
 

 しかし、この船も関係自治体との契約は、2020年7月までらしい。
 

 「明石港」の真ん中には、「錦江橋」という橋でつながった島のような埠頭がある。かつてここから岩屋港まで「明石淡路フェリー」が運航されていた。船体に描かれていた絵から「たこフェリー」の愛称で親しまれていた。20分ほどの船旅だったが、結構、「旅気分」が味わえた船も平成22年11月を最後に廃止された。今はマンションとコインパーキングになっている。淡路島を望む。
 

 「錦江橋」は渡らず「錦江橋南詰」交差から国道28号線を東に進み、「中崎1」交差で国道と別れ、「中崎遊園」という緑地帯に沿った道に入る。
 

 すぐ右に「子午線標識」が立つ。今から「子午線」を越えるんだな。
 

 その前に「ラヂオ塔」と刻まれた塔が。左には「登録有形文化財」のプレート。「ラヂオ塔」とは、ラジオ普及のため各地に作られた電波受信施設らしい。
 

 2~300mほどで右に「中崎公会堂」が現れる。
 

 明治44年、多目的ホールとして建築されたもので、あの夏目漱石も講演したといわれる。奈良・鎌倉時代の建築様式が取り入れられ、ここも国の登録有形文化財に登録されている。
 

 左に曲がり、北へ進もう。100mほどで三叉路の角に何やら石柱が立つ。左に見える「天文科学館」風の建物は、明石警察署の大蔵交番。「子午線交番」とも呼ばれる。
 

 「大日本中央標準時子午線通過地識標」と刻まれた石柱は、市内で最も古い「子午線標識」で、明治43年、小学校の先生たちがお金を出しあって建てたものだという。
 

 「子午線交番」裏の「明石人丸教会」前を北に進み、1つ目の路地を左に曲がれば50mほどで「忠度塚」。「平忠度」の亡骸が埋められているという。
 

 元の道に戻り「明石人丸教会」前を左折すれば、この道も「旧山陽道」だ。
 

 200mほど進むと左の路地奥に神社が見える。行ってみよう。
 

 「稲爪神社」。創建は、推古天皇の時代までさかのぼるという。「大山祇命」をご祭神とするが、摂社として恵比寿神社も祀る。
 

 さらに「旧山陽道」を東へ進む。ところどころ古い町家が残り、街道沿いであることを窺わせる。
 

 この立派な旧家の前に「八幡神社」。
 

 「八幡さん」なので、「応神天皇」やその母「神功皇后」を祀る。今日最後の神社に参拝する。
 

 この神社を過ぎれば「旧山陽道」は、小さな入江に突き当たる。
 

 堤防に沿って進み、国道2号線で入江を越えれば、右に「酒笑本館」。「酒笑」と書いて「しゅまいる」と読むらしい。
 

 日本酒の蔵元「明石酒類醸造(株)」の直販所だが、土・日・祝日はお休みのようだ。
 
 
 そのまま南に進み、国道28号線を越えれば海に出る。「明石海峡」。目の前には「淡路島」が横たわる。
 

 突き当たりを左に進めば「大蔵海岸」。
 

 全長3911m。世界最長の吊り橋として平成10年4月に開通した「明石海峡大橋」。本四連絡橋のひとつとして「神戸淡路鳴門自動車道」が走る。その「明石海峡大橋」の端から端までが望める公園として人気のスポットだ。あまりにも大きすぎてカメラに全容は収まらない。
 

 かつては、白砂青松の海水浴場だったそうだが、国道28号線の改修に伴い、コンクリート堤防と消波ブロックで埋め尽くされたことから、整備が進められ、「明石海峡大橋」の開通とともに人工海浜公園としてオープンした。
  

 しかし、平成13年7月21日、死者11人負傷者247人を出した、いわゆる「明石花火大会歩道橋事故」という痛ましい出来事も起きている。
 

 そして、目の前の歩道橋を渡れば、本日のゴールJR「朝霧駅」だ。
 

 午後3時40分到着。ここから「大阪駅」までは、JRでは約1時間10分(920)円だが、途中で阪急電車に乗り換えるルートもある。本日の歩紀「25467歩」(17.31km)。歩道橋の脇には花火大会の事故で亡くなった方々の慰霊碑が。「合掌」
 
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