「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

「のせでん」に沿って

2015-06-21 21:05:45 | 日記
訪問日:平成27年6月21日(日)
出 発:能勢電鉄「川西能勢口駅」
到 着:能勢電鉄「妙見口駅」

 「能勢電鉄(通称:のせでん)」。「能勢の妙見さん」への参詣客と沿線で産出される「栗」や「炭」などを輸送する目的で大正2年、現在の阪急宝塚線「川西能勢口駅」から「一の鳥居駅」までが開業。その後、大正12年「妙見口駅」まで延伸された。昭和42年「鶯の森」「ときわ台」に大規模住宅地が開発されたのを皮切りに沿線が宅地化され、大阪のベッドタウンと都心を結ぶ通勤列車として発展したが、今は結構、観光にも力を入れているようだ。いつもは通勤で利用する25分の道のりを1日かけて歩いてやるぞ。各駅前を通過するので給水・トイレには困らない。


 「のせでん」の出発点「川西能勢口駅」。開業当時は「能勢口駅」と呼ばれたそうだ。阪急宝塚線との合同駅舎であるため、かなり大きな駅で阪急百貨店やショッピングセンターなどともつながっている。構内には、コンビニやベーカリーショップなどもある。手前が「のせでん」、奥は阪急電車。
 

 「のせでん」は、平成26年12月から駅名標に、各駅に因んだイラストが描かれるようになった。「川西能勢口駅」は、里山である「能勢」への玄関口と「妙見さん」のシンボル「北極星」をイメージしている。
 

 午前9時40分、「川西能勢口駅東口」をスタートする。この辺りは、高架化される前は駅前としてアーケード街もあったが、今は「裏口」となりひっそりとしている。ここは、兵庫県川西市。
 

 かつての「駅前食堂」も今は道端に。メインは「中華そば」と「カレーライス」。「国民食」だ。
 

 阪急の高架に沿って東へ進む。途中には、かつての繁華街の名残である「スナック街」が残る。
 

 すぐに「国道176号線」と交わるので、そのまま東へ。
 

 「小戸2丁目交差」を過ぎ、次の「小花交番前交差」の角に「小戸神社」の社号標。左折し参道を進む。
 

 突き当たりに「小戸神社」。「おべ」と読む。
 

 大山津見尊、素戔嗚命、天児屋根命を祀る。由緒は不詳だが、式内社なので1000年以上の歴史があるのだろう。今日一日の安全祈願をする。
 

 神社の前を流れる水路は「猪名川」からの導水路だ。
 

 導水路に沿って東へ進む。古い家と新しい家が混在する。
 

 突き当たりを右折し、次の四つ辻を左折。地図を頼りに進んで行くと、阪神高速池田線が「猪名川」を渡る「ビッグハーブ」という橋の下で「猪名川」の堤防に出る。
 

 上流に向かって歩こう。川の向こうは「大阪府池田市」。
 

 「絹延橋うどん研究所」。讃岐うどんのお店である。先日、テレビで放映されていたなぁ。
 

 少し歩くと右に「絹延橋」。この辺りには織姫伝説が伝わり、呉織(クレハトリ)、穴織(アヤハトリ)という二人の織姫が、織った絹布をこの川で水に晒したという(野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の町「池田」参照)。
 

 橋のすぐ西側には2つ目の「絹延橋駅」。
 

 伝説に因んで、川に布がなびいている様子をイメージしている。
 

 橋の西詰めまで戻る。実は、この部分だけ府県境が「猪名川」を越え、この水路が大阪府と兵庫県の境になっている。
 

 家並みを抜けていく。
 

 7~8分でデイサービスのある角を左に入れば「三輪神社」。付近には2つの「三輪神社」があるため、ここは「出在家の三輪神社」と呼ばれる。
 

 新たに村ができたため、この後訪れる「滝山の三輪神社」から村社として寛永16(1636)年、分祀された。大巳貴命(オオナムチノミコト)つまり大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀る。
 

 そのまま神社前を西に進み、閉鎖された浄水場前で「のせでん」と県道が交わるので右折する。
 

 しばらくすると右の猪名川堤防上がヘリポートなどを備えた「防災公園」になっている。
 

 県道を挟んで3つ目の「滝山駅」。
 

 旧「滝山村」の地名から滝と山をイメージしているそうだ。なお、これらの駅名標は、今日、自宅近くの始発駅「妙見口駅」から「のせでん」に乗り、スタート地点の「川西能勢口駅」へ向かう際、途中下車をしたり数十秒の停車時間を利用して撮影したものだ。
 

 駅の西側に造成された住宅街に入っていく。
 

 一つ目の道を右に曲がり、真っ直ぐ進んでいくと「滝山の三輪神社」。
 

 創建年は不詳であるが、寛正年間(1460~1466)には、既に現存していたといわれる。先ほど訪れた「出在家の三輪神社」の本宮であり大巳貴命を祀る。
 

 参拝を終え神社の西側にある「浄水場跡」角から住宅街を抜けていく。どちらの「三輪神社」も西側に浄水場跡があるんだな。
 

 住宅街を抜けて行くと右に「のせでん」が見えてくるので線路に沿って進む。
  

 すぐに4番目の「鶯の森駅」。
 

 かつて付近には野鳥が飛び交う深い森が広がっていたことから、さえずる鶯をイメージしているそうだ。
 

 駅のすぐ北側の踏切を渡って県道に出る。すぐ目の前の「猪名川」は、堰で止められダム湖のようになっている。
 

 左にトンネル。上下線別々になっている。
 

 トンネルの前の県道沿いに赤い鳥居が。「銭取り岩」の跡と言われる。明治中頃まで新道を通る人から通行料を徴収していたそうだ。
 

 ただ、この辺りは「猪名川」の氾濫に苦しめられたようで「白玉龍王」などの文字が刻まれているところをみると「水」の守り神を祀っていたのだろうか。
 

 県道をさらに進むが、ここから次ぎに渡る「銀橋」までは、カーブになっており歩車道の区別がないうえ交通量も多いので気をつけて歩こう。すぐ上をトンネルをくぐり抜けた「のせでん」が鉄橋で「猪名川」を渡る。
 

 ここは「猪名川」の最も狭い部分で渓谷のようになっている。ここが「ボトルネック」となって十数年に一度、水害を引き起こすようだ。
 

 狭い県道を通り抜け「銀橋」を渡り「多田桜木1交差」で「国道173号線」を横切る。角には「ダイエー」があり沿線では「多田のダイエー」で通っている。
 

 国道を渡れば自然と「のせでん」の踏切に突き当たる。そこに5番目の「鼓滝駅」。
 

 かつて付近には「猪名川」に落下する滝があり、岩肌に当たって鼓のような音をたてていたそうだ。川に浮かぶ鼓をイメージしている。
 

 踏切の手前を左に曲がり線路に沿って進む。
 

 途中、右に何やら石碑が。「御供田」と読める。
 

 左に「イズミヤ」を見ながら進んでいくと、6番目の「多田駅」に出る。
 

 駅前には、この後訪れる「多田神社」への道標が立つ。
 

 多田神社の拝殿と祭神である「清和源氏」の武将をイメージしている。
 

 駅から西に進み「国道173号線」の「多田駅前交差」に出る。この付近には、ファミレスやチェーン系列の中華料理店、うどん屋、ラーメン屋、牛丼屋などが並び、沿線でも最も飲食店が多いところだろう。
 

 「多田駅前交差」を渡り、西方向に進む。桜並木が続く。
 

 15分ほどで「多田神社」の神域に出る。
 

 多田神社前に着く。社号標の他、神仏習合の名残だろう、左端に「多田院」という石碑も立つ。
 

 この辺りは「清和源氏」発祥の地であり、祖「源満仲(みなもとのみつなか)」によって天台宗寺院として天禄元(970)年に建立されたという。
 

 その後、明治の神仏分離によって多田神社となり、「清和源氏」の霊廟として「源満仲」「源頼光」「源頼信」「源頼義」「源義家」の五神を祀る。
 

 参拝を終え、時間は午前11時40分。食事にしよう。私は、神社やお寺の門前にあるこのような店の雰囲気が好きだ。「えびすや」に入る。
 

 「丼定食(870円)」を注文。
 

 食事を終えて神社東側の道を北上する。
 

 神社を過ぎたところで右折し住宅街へと進む。「のせでん」沿線は、大阪のベッドタウンとして宅地化が進んでいる。
 

 祭りの時には「山車」が出るんだな。
 

 そう言えば、所々、古い家も残る。
 

 住宅街を抜け、スーパー「Mandai」前を左折。
 

 「国道173号線」に出るので左折する。出発点の「川西能勢口駅」から終点の「妙見口駅」まで標高差は170m弱。ここまでは平坦な道が続いたが、これから緩やかな上り坂となる。
 

 「平野2丁目交差」で左折。角には「多太神社」への案内板。
 
 
 その横には「多太社」と刻まれた社号標石。
 

 100mほどで「多太神社」前に出る。かつては「タタ」「タダ」と呼ばれたそうだが、現在は先ほどの「多田神社」と混乱を避けるため「タフト」神社と呼ばれている。
 

 創建年月は不詳であるが、日本武尊、大鷦鷯尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る。大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)とは仁徳天皇の異称らしい。
 

 神社の隣は「多太神社の森」という鎮守の森になっているようだ。
 

 参拝を終え左へ。地蔵尊の前を過ぎる。
 

 「平野3丁目交差」で「国道173号線」に戻るので信号を渡り左へ進む。少し進めば「のせでん」の本社前に出る。
 

 ここには、本社のほか車庫もある(往路、途中下車をして撮影)。
 

 そして7番目の駅「平野駅」。「国道173号線」を跨いで「多田グリーンハイツ」方面へのバスターミナルと陸橋でつながる。
 

 駅名標は、この後訪れる「三ツ矢塔」をイメージしている。
 

 陸橋には、この後、訪れる場所の案内が。
 

 駅を過ぎ「国道173号線」を北上、「平野交差」を過ぎると右に「コーナン」が現れる。「コーナン」手前の「塩川」という川を渡るのは「三ツ矢橋」。
 

 「三ツ矢橋」を渡り、店舗とは逆方向(左)に進む。ここは、明治時代、平野鉱泉という炭酸泉を用いて「平野三ツ矢水」として販売した「三ツ矢サイダー」発祥の地である。
 

 皇室にも献上され「御料品製造所」や「三ツ矢記念館」「三ツ矢サイダー碑」「源泉井戸」などがあり一般公開されていたが現在は公開が中止されている。「コーナン」奥のフェンス越しに炭酸ガス製造に使われたという「三ツ矢塔」の外観を望む。
 

 私が、この沿線に引っ越ししてきた頃、鉱泉を利用した一軒宿の温泉旅館があったが、かなり前に閉館し今は建物跡が残るだけだ。ただ、今でも「プン」と硫黄臭が漂う。
 

 「三ツ矢橋」まで戻り、道路の向こうへ渡りたいのだが信号がないので一旦左へ。先ほどの「平野交差」を渡って右へ上る。「ファッションセンターしまむら」を過ぎて左折し、すぐに路地を右に入れば「薬師庵」。「平野湯」は「摂津名所絵図」にも描かれ、その名残がこの「薬師庵」だとか。
 

 お堂の前には「多田平野湯之町温泉薬師庵」と刻まれた碑。
 

 「国道173号線」に戻り左へ。坂道を上っていく。
 

 すぐに「のせでん」の鉄橋をくぐる。
 

 鉄橋をくぐった右側では「第二名神高速」の工事が行われていた。
 

 工事現場横には、バブル期に造成されたニュータウンの跡が。バブル崩壊後は、荒地として放置されている。
 

 そして、次の交差点が「一の鳥居交差」。交差点横には8番目の「一の鳥居駅」。大正2年の「のせでん」開通当時は、ここが終点だったそうだ。ここから、明治に入って開通した「花折街道(国道477号線)」が「能勢の妙見さん」まで続く。
 

 駅名のとおり妙見山への参道入口として建てられた鳥居と参詣者をイメージしている。
 

 そして駅前には立派な「天守閣」がそびえる。実は、ここは大阪府箕面市にある「大阪青山大学」の「北摂キャンパス」で、天守閣を模した「大阪青山歴史文学博物館」と体育館が建つ。
 

 「日産販売店」の横からちょっと「花折街道」に入ってみる。
 

 少し歩くと左に立派なお屋敷が現れる。
 

 奥には茅葺きの母屋。
 

 その横には、かつて何をしていたのだろう煉瓦煙突が2本。
 

 このお屋敷の前は、よく車で通過するがあまり生活臭はしない。
 

 「塩川」を挟んで何やら倉庫のような建物も。
 

 さらに「花折街道」を進む。両脇には「能勢カントリー倶楽部」が広がる。歩車道の区分がないうえ交通量も多いので注意して歩こう。
 

 そしてカーブの突き当たり。「能勢カン」の入口に鳥居が立つ。
 

 この鳥居が「一の鳥居」。以前、「一の鳥居駅」前に立っていたが、平成7年の阪神大震災で被災し、この場所に移された。
 

 ここから先に進めば「妙見山」へと続くのだが、ここで引き返す。「花折街道」については「花折街道・雛のつどい~妙見口駅から黒川の里山、桜の森を訪ねる~」「花折街道・再び」「再々訪、花折街道~2015雛のつどい」ほかを参照。
 

 「一の鳥居交差」に戻り右へ。先ほどの「大阪青山大学北摂キャンパス」前を過ぎる。結構な上り坂だ。
 

 一つ目の信号で「国道173号線」とわかれ右に入る。陸橋で「のせでん」を越えれば9番目の「畦野駅」。「うねの」と読む。「大和団地」というニュータウンへの入口だ。
 

 この後「頼光寺」というお寺にお参りするが、「あじさい寺」と呼ばれる「頼光寺」をイメージしている。
 

 跨道橋で再度「のせでん」を渡り、川西北郵便局の角を右折する。
 

 真っ直ぐ歩いて行くと「頼光寺」への案内。
 

 案内に従って進んで行くと「のせでん」をガードでくぐる。
 

 すぐ目の前に「頼光寺」が現れる。
 

 「清和源氏」の祖、源満仲の夫人である法如尼の発願で建てられたそうだ。
 

 昭和49年の本堂再建に際して川西市から100株のあじさいが寄贈され、住職らの手によって丹精込めて育てられた。
 

 今では梅雨時になると約500株が咲き誇り「あじさい寺」と呼ばれている。
 

 来週くらいが見頃だろうか。
 

 元の道に戻り、右へ進んで行くと「国道173号線」と合流するので進んで行く。そしてすぐに「見野」という交差点に出るので、そこから右の町中に進んで行く。
 

 「JA」の前で右折すると10番目の「山下駅前」に出る。「のせでん」は「川西能勢口駅」から終点の「妙見口駅」まで、本線とも言うべき「妙見線」で12.2kmを結ぶが、ここ「山下駅」から新しく開発された「日生ニュータウン」まで1駅2.6kmを「日生線」という支線が走る。
 

 ここから終点の「日生中央駅」までは往復になるので片道は電車に乗ることにする。 昭和53年12月に開通し全線高架である。この後「山下駅前」の町を歩くが、かつて「多田銀銅山」の精錬で栄えた町の風景をイメージしている。
 

 約3分190円で「日生中央駅」に到着。駅名標は、すぐ近くにある桜並木をイメージしている。駅番号としては「21番目」になるようだ。支線の一番目ということだろう。
 

 この駅は「日生ニュータウン」さらに奥に造成された「猪名川パークタウン」等への入口にあたる。駅前には、ショッピングセンターや「ケーズデンキ」、ホームセンターなどが並ぶ。
 

 以前歩いた「北摂里山街道」を逆方向に歩く。
 

 前回コースのひとつ南の道へ入る。
 

 古い民家が残る。
 

 この後すぐ右に現れる「前川大橋」を渡るのだが、その前にちょっと寄り道。真っ直ぐ進む。正面に見えるのは「国道173号線」。
 

 坂を上りカーブの突き当たりを真っ直ぐ行くと正面には「一庫ダム」。以前、このダムの堰堤を歩いた(「北摂里山街道をひたすら歩く」参照)。
 

 「一庫大路次川」をせき止めて昭和58年に完成した高さ75mの重力式コンクリートダム。下から眺めると改めてその大きさを感じる。
 

 先ほどの「前川大橋」まで戻り「一庫大路次川」を渡って左へ。
 

 「国道173号線」の高架橋と合流するが側道から路地に入る。ここは「山下」の町。元々は、北にそびえる「城山」という山にあった「山下城」の城下町として栄えたようだ。銀銅の鉱脈を支配下において莫大な経済力を誇った「塩川氏」の居城であったらしい。
 

 一見、石垣に見えるが、これは採掘した銀銅の「からみ」と呼ばれる鉱滓らしい。
 

 近代に入ってからは、銀銅の製錬所が並び、大正期に最も栄え付近には洋館や映画館などが並んだという。町の北には、銅の精錬業を営み財を成した平安(ひらやす)家の旧邸「旧平安邸」を改造した「川西郷土館」が建つ(入館料200円)。
 

 大正時代中期、継ぎ目のない松板で廊下を葺くなど贅を尽くした邸宅で、国の登録文化財に指定されている。
 

 庭も素晴らしい。
 

 そのすぐ北には「旧平賀邸」。大正7年築の英国風洋館。「大正ロマン」をテーマにした催しも開催されているようだ。
 
 
 館内には、多田銀銅山最後の精錬所として昭和初期まで操業していた「平安精錬所跡」が残されている。
 

 ここは、からみ(鉱滓)捨て場跡。
 

 「川西郷土館」を出て東へ進んでいくと「平野神社」。社誌によると保元2(1157)年、源光國が平野明神を勧請したのが始まりという。
 

 付近を治めた「塩川伯耆守國満」は、源光國の末孫だと言われる。
 

 元に戻り町中を進む。付近は「東谷」と呼ばれる地区だったそうだ。城下町と大正ロマンの混ざり合った町を「東谷ズム」と呼び、町興しプロジェクトも組まれているようだ。
 

 

 土塀も残る。
 

 土塀に補強のため埋め込まれているのも「からみ」だ。
 

 地蔵尊が並ぶ。ここは、直角に道が曲がっていることから、城下町によく見られる防御用の「枡形」だろうか。
 

 「鉄橋(くわがねばし)」という橋で「初谷川」を渡る。
 

 「のせでん」に乗る前に通ったJA前に出る。角には「東谷村道路元標」の碑。ここを「能勢街道」が走っていたのだろうか。
 

 左に曲がり「山下駅前」に戻る。駅に向かって一番左側のガードをくぐり、すぐ左の狭い路地へ入る。
 

 「初谷川」を渡り「のせでん」高架に沿って歩くと「笹部」の集落へと続く。
 

 途中、左にそれて「笹部公民館」。
 

 田植えが終わった水田が広がる。
 

 「里山」「古民家」「棚田」の三重奏。日本の「原風景」が残る。
 

 田植えが終わった棚田が美しい。
 

 棚田の一番高いところからの眺め。
 

 「初谷川」を渡る。この辺りは、今の時期ホタルが舞う。
 

 正面には11番目の「笹部駅」。「のせでん」で最もローカルな駅だ。「のせでん」は「山下駅」から「妙見口駅」までの間は単線である。停車しているのは、2両編成の「復刻塗装列車」。「山下駅」~「妙見口駅」を連絡する。
 

 駅名標は、今歩いた「原風景」をイメージしている。
 

 駅北側の歩道橋を上がる。ここは「畦野駅」を玄関口とする「大和団地」の一角だ。
 

 「大和団地」の端に沿って歩く。
 

 「大和団地」の北側には「初谷川」が流れ、その「谷底」を「のせでん」が走る。
 

 遠くに先ほど歩いた「笹部」の棚田を望む。
 

 団地の北の端にある坂道を上るとフェンスに突き当たる。ここは、大阪府と兵庫県の府県境だ。「大和団地」と大阪府豊能町にある「光風台」とは、この道でつながるのだが「縦割り行政」のためかフェンスで分断されている。
 

 しかし、この辺りの人たちは、「畦野駅」や「笹部駅」よりも次の「光風台駅」に近いため、フェンスは破られ「けもの道」ならぬ通勤客の踏み跡で「抜け道」ができあがっている。
 

 抜け道から「光風台」の町に入る。
 

 真っ直ぐ進めば左に12番目の「光風台駅」。駅も「谷底」に建つ(「熊と会いに高代寺へ」参照)。
 

 住宅の名から「光と風」をイメージしているそうだ。
 

 マンションの横を抜け「ディリーカナート」角の信号を渡って真っ直ぐに進むと「ときわ台」の住宅地に入る。正面奥の山は「妙見山」。
 

 「ときわ台」から水田越しにトンネルを抜けた「のせでん」を望む。
 

 住宅を抜けマンションの手前で「初谷川」を渡れば13番目の「ときわ台駅」。
 

 沿線で最も早くに造成された「ときわ台」の入口である。住宅名の由来となった「常磐御前」をイメージしている。「常磐御前」とは平安時代末期の女性で源頼朝の側室であったと言われる。やはり、この辺りは「源氏」との関係が深いのだろう。
 

 駅に向かって左のガードをくぐり線路に沿って進む。山の中から「のせでん」が現れる。
 

 「高代寺」からの合流点を過ぎる。右には「初谷川」に架かる「のせでん」の小さな鉄橋。時代を感じさせる。
 

 ちょっと分かりづらいが「初谷川」を挟んで対岸をクリーム色とブルーの復刻塗装「のせでん」が走る。
 

 トンネルの手前で踏切を渡る。
 

 畑を抜ければ「初谷川」に架かる橋を渡るが、この辺りもホタルが舞う。
 

 「花折街道」旧道との合流点を過ぎれば右に常夜灯。その奥の窪みは「祠」になっている。
 

 蛇行する「初谷川」を再度渡り、「吉川」の盆地に開けた田んぼを眺めながら進む。ここは豊能郡豊能町吉川。古くからある集落だ。向こうの山は「高代寺山」。
 

 「浄土真宗本願寺派西方寺」の前で左へ。
 

 「のせでん」に沿った吉川の水田。
 

 阪急バス「妙見口駅」のバス乗り場を過ぎる。
 

 「塩川氏」の居城といわれる「井戸城」があったとされる山の下で「城之下橋」を渡る。向こうの古民家を過ぎれば間もなくゴールだ。
 

 午後5時10分、14番目「のせでん」の終着駅。そして大阪府最北端の「妙見口駅」に到着。何度も訪れた駅だ。ここまでの歩紀「39010歩」(33.54km)。結構、歩いたな。
 

 「のせでん」の大部分は、兵庫県川西市を走り、日生線終着の「日生中央」のみが兵庫県川辺郡猪名川町に。「光風台」「ときわ台」「妙見口」の3駅が大阪府豊能郡豊能町に所在する。
 

 「能勢電鉄」というが「能勢町」には繋がらない。それは、現在の「豊能町」が、かつて「東能勢村」と呼ばれていたからである。というより「豊能郡」は、かつて「能勢郡」と呼ばれていた。
 

 「妙見口駅」周辺は「高代寺」への町石や「妙見山」への常夜灯が残る。その先には「吉川八幡神社」や日本一と言われる「里山風景」も残るが、駅前というにはちょっと無理があるかも。
 

 吉川公民館前のこの常夜灯は、真新しいので模造かと思ったが、文化5(1808)年、先ほどの西方寺付近に建立され、長らく民家で保管されていたものを磨きにかけた「本物」らしい。
 

 公民館の横には古い常夜灯も残る。かつての参道脇からここへ移されたものらしい。
 

 とりあえず、私は自宅最寄りバス停まで阪急バスで帰るため「のせでん」に乗り「光風台駅」まで戻ることにする。妙見山麓の里山をイメージしている。
 

 この保線用車両はかなり昔から停まっているなぁ。
 
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