社民党 京都府連合 野崎靖仁 副主席語録
社会民主党 中央規律委員 野崎靖仁、55歳。
日々の思いを綴ります。
 



BS11で毎週土曜日 よる9時00分~9時55分に放送中の
歴史番組「偉人・敗北からの教訓」。

YouTubeで期間限定の見逃し配信が行われています。

それでは、「第50回 徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」の見逃し配信をご覧ください。

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。
徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、
父・家康から多大な期待を寄せられていた。
豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、
秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、
あと一歩のところまで追い込む。
そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、
関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。

1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、
自らは大御所として実権を握る。
そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。
家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。
ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、
疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。
秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?

大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、
秀忠は武家諸法度などの法を整備し、
それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、
将軍としての主導力を発揮する。
父・家康が目指した路線を継承し、
徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、
その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。
もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、
歴史はどう動いていたのか?
(2024年6月29日放送の期間限定見逃し配信です。)


【BS11】偉人・敗北からの教訓「第50回 徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」
2024年6月29日放送分見逃し配信


YouTube限定の「偉人・敗北からの教訓・こぼれ噺」もご覧ください。

BS11で放送中の歴史番組「偉人・敗北からの教訓」
番組収録後に、番組内でご紹介できなかったエピソードなどを
歴史作家の伊東潤さんに語っていただく
「偉人・敗北からの教訓・こぼれ噺」第59回目です。

今回は、本編の第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣 編」で
話しきれなかった内容や歴史に纏わるお話など、
お題の中から選んで語り尽くします。

近年、再評価されている徳川秀忠。
関ヶ原の戦いで父・家康が怒ったのは遅参が原因ではなかった?
秀忠の評価できると思う点を1つあげるなら?
伊東さんが語る締め切りに遅れるのは○○な作家!…etc.

さらに、2024年7月6日(土)夜9時放送
「渋沢栄一 編」の予告映像と見どころをご紹介。
お見逃しなく!


徳川秀忠に関ヶ原の戦いで父・家康が怒ったのは遅参にではなかった?
(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第59回)


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