のそのそ日記

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だらだら繰言

2016-05-17 16:39:00 | ノンジャンル
 BBAの繰言みたいな話なんだけど、ほんとにトシくってはっきり思うようになった話。

 子供の頃、小説でも漫画やアニメでも「一途であること」を賞賛するノリが社会に強かったように感じていました。もしかしたら今の方が強いかもしれないけど、昨今のことはよく判らないゴメン。

 心から好きになったスポーツや趣味や勉強に対して、とことん突き詰めていったほうが、ちょろちょろつまみ食いしてまわるより高いところまでいけるっていう、そういう理屈を聞かされるとなるほどと思ったし、脇目をふらずに邁進している人は傍から見て実際きれいだったからさ!
 ただ、そういう人が余計なことをしなければならない場合(たとえばじゃんけんで負けて部活のパシリをせねばならんとか、籤で学校の役員に当たってしまったからしばらく活動停止せねばとか)その余計なことを避けて通るか、しゃーねーなと言って受け入れるかで、その人の内面社会はものすごく変わると思うんだ。
 自分にとって大事なもの・自分愛するもの以外に対して、敵とか邪魔とか思わないで前向きに関わる、そういう事が出来ないでいると、それはとても寄る辺ない心になってしまうと思うからさ。

 よく理科で「生物多様性の重要性」って話が出るじゃないですか。
 生物の種類が多いことで何かええことあるんか?少ないほうが管理も保護もし易いんじゃ?って意見に対して、種類は多いほうがいい裾野は広けりゃ広いほうがいいってやつ。
 あれは環境の激変があっても、種類の違う生物が生活圏カブらせながら多種住んでいればまとまった地域が不毛になる事もないけど、1種だけが一定の地域を占めていた場合、それが全滅したとたん、その地域が不毛地帯になってしまって再生にえらい時間がかかってまうからなのね。
他にもいろいろ相互補助とか共生なんちゃらとかあるけど、とにかく強さは分散されていたほうがいいのYO。

 私はそういう多様性は人の内面にも必要なんジャマイカと思ってます。
 いきなりこんなん思い出したのは、先週話題になったブログで「同人やめます」って記事を読んだせいなんだけど。

 ブログ主の話では、同人が大好きで人生の拠り所として活動してきたけど、活動環境も変わって人間関係も変わって競争原理が強くなりすぎてこんなのはついていけない、大好きだった二次創作から離れるのは忍びないがしかたない。って話でした。

 ついていけなくなった理由や、今のネット交流に対してとても論理的に表現している文章だったから、一見さんな私でもモノを書くのが得意な人だったんだろうなと思ったのよ。
 ただ同時に、この人は「自分が愛するもの」にだけしか目を向けることが出来なくなってるなとも思ったのだ。
 もちろん、こんなに悩んでいる時に「他に気晴らしでも」とか言われても出来ないのは当然だろうけど、恐らく同人活動を愛して楽しんでいる間、それ以外のやらねばならない雑多な事を「敵・余計な事」として分類してきてしまったのではないのかな。
 こんな事をしている暇があったら原稿したいとか。

 好きなものを純化させるのは、美しいことだと思う。
 だけど、それは極端に融通の利かない弱い自己を作ってしまうような気がする。
 弱いってのは社会に迷惑をかける種類じゃなくて、本人が必要以上に辛く感じ易いっていうやつね。
 仲間ではないけれど悪意のないただの隣人も厭うべき敵と認識してしまった場合、本人が感じる苦痛はただならないもんだと思うのよ。
 当事者は辛さの原因がわからないだろうし、カミングアウトしていないおたくの内面の悩みなんて、周囲には更に理解されないだろうから、余計しんどいんじゃないかな。

 独り立ちして自分の好きな事を続けようとするのなら、自分の生活や心の中で、それに対して何割くらい振り分けられるかを心得た方がいいと思う。(生活割についてはお金っていう数字で割振りしやすいけど、心の割合は設定難しいと思うのよ)

 その難しさって、趣味やスポーツだけじゃなくて「好きになる人間」に対しても同じだと思うから。




コメント
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