第二幕、第二場。天上からミラー・ボールが吊るされ、キャバレー兼カジノといった趣。市民社会が「家庭」から放逐してアンダーグラウンドな世界に押し込めた欲望が、貨幣経済の発達とともに歓楽施設を作り出す。カーセンの演出は、それを今日の観客の眼にも猥雑なものとして置き換えてみせる。台本はそのままにアメリカナイズされた振付は第一幕から登場するドル紙幣とともに、今日のグローバリズムへの皮肉を含んでいるのかもしれない。ライティングは第一幕同様、虚栄と退廃のシンボルであり、しかもドル紙幣のインクの色でもある緑色を強調したものからはじまり、やがて青を基調としたものに変わり、第三幕でも青と白色光が中心となる。
ジェルモン氏が登場するとき、舞台の背後の壁が二つに割れる。非日常的な空間へのブルジョワ的道徳観による介入にふさわしい演出と感じた。
アルフレードに札束を投げつけられたヴィオレッタが、通常の演出とは異なり、険しい形相で前方を見据えて立ち尽くすのも印象的だった。一人の女として愛した男から、あくまでも娼婦として扱われたことへの怒りと絶望の表現だろう。アルフレードは自分が与えられた無償の愛という価値を、貨幣価値に還元してしまったわけだ。
アルフレードの怒りは、ヴィオレッタが自分を裏切ったと思ったことだけでなく、彼女に養われていた自分自身へ向けた怒りでもあったはずだ。ヴィオレッタがパトロンである男爵の元に去ったことを知り、ヴィオレッタが娼婦であったことを改めて実感する。ヴィオレッタに投げつけた紙幣は、返済という意味だけでなく、その侮辱的な振る舞いによって性的に独占した代価としての意味合いを持つ。
周囲の人々の非難も、あまりに礼を失した振る舞いへの道徳的な非難が第一義的にあるが、それが真っ当な労働による報酬でないところが反感を引き起こしたと見るべきだろうし、父ジェルモン氏の不興もそうした文脈で理解しうる。
第三幕。舞台が暗転し、幕が降りたまま前奏曲が奏でられる。幕が上がると内装工事用の足場が組まれ、壁は白いビニール・シートで覆われ、ひどく殺風景でがらんとした部屋となっている。しかし第一幕と同じ部屋であることは、カーニバルの狂乱に乗じて乱入してきた若者たちによってシートが引き剥がされると、下から第一幕で印象的だった緑の木立の壁紙がところどころ剥された状態で覗くことから判る。家具も非常に粗末なものに変わっていたり、梱包されていたりする。
こうした演出も原作を踏まえたもので、小説では彼女の家財をすべて差し押さえた管財人によって差し向けられた番人の靴音を聞きながら、マルグリット(ヴィオレッタ)が死の床でアルマン(アルフレード)に最後の手紙を書く。この舞台でも彼女が息を引き取るとともに内装業者らしき男たちが作業をはじめる。
その寒々とした部屋で、ひどくやつれたヴィオレッタが床に横たわっていて、それは第一幕でヴィオレッタ自身が予感していた通りの最期であり、付け放したテレヴィが住人の、(少数の例外を除けば)テレビしか自分に言葉を発するものがいない孤独を暗示する。もっとも朝の「7時」ということなので他の解釈もあるのかも知れない。ヴィオレッタの孤独は、彼女が唯一の友人と呼ぶ医師グランヴィルが帰り際にアンニーナに報酬を要求し、受け取る場面でも強調されると同時に、この演出を首尾一貫したものとしている。つまりヴィオレッタの不幸とは、彼女が望むと望まないとにかかわらず、一旦娼婦となってしまったのちは、金銭の授受を介した人間関係しか持てなかったということだ。
アルフレードが現われたとき、二人は剥がれかけた壁紙の前で抱擁する。正面からのライトは壁紙の剥がれたあとに二人の影を映し出す。紅葉した木立の中で抱擁していた第二幕第一場の反復だが、そこで二人が歌うような田舎での平穏な暮らしはもはや幻想でしかないことを示す。第一幕でアルフレードがヴィオレッタに渡したポートレートは、現代の風俗に置き換えたこの舞台では肖像画の代わりを果たし、ヴィオレッタはマノンのようにアルフレードの腕の中で死んでいく。第一幕と第二幕の小道具も第三幕にうまく活かされている。
ここでふと思ったことがある。アルフレードが第一幕でヴィオレッタに手渡した大きく引き伸ばした写真は、実は定職にはついていなかったが、フリーランスのカメラマンとしてヴィオレッタの姿を遠くからパパラッチとして撮りためていたものだとしたら、これもまた原作の中で鋭く批判され、またヴェルディにとっても他人事ではない問題ということになる。原作ではマルグリット(ヴィオレッタ)の死後、やがて競売にかけられる家財の下見会にブルジョワジーの婦人たちが押しかける場面からはじまる。それは虚栄に満ちた退廃的な世界を建前上、嫌悪しつつ、好奇の対象ともする大衆の欲望を描いていることになる。
当時と今とでは、風俗や慣習は大きく変わってしまったが、市民道徳の偽善性と貨幣経済そのものは変わっていない。それらはもともとこのオペラの台本にも内包されており、ヴェルディが「私たちの時代の主題」と見なしていたものだろう。カーセンの演出はそれを具体的に眼に見えるものとしたに過ぎない。デュマ・フィスが自作を戯曲化したときも、風俗を乱すとして長く上演されず、ヴェルディが強く願いながら劇場側や台本作者が忌避したため、果たせなかったを本来の意図を現代において再現するという意味では十分に説得力のあるものと感じた。
それが観客の好悪を激しく分かつことも十分理解できる。ただし、激しい嫌悪や困惑もまた演出家カーセンの意図したところなのだろう。
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演出のことばかりに触れてきたので、最後に演奏についても少しばかり。
第一幕では、オーケストラにやや重さが感じられるように思った。そのせいだろうか、それが演出プランとの関連によるものか、版の違いによるものかは分からないが、前奏曲が終わった直後の湧き立つような感覚が若干スポイルされているようにも感じた。歌手たちも本調子ではないのかと感じる部分もある。
そうした不満も第二幕以降、次第に解消されていく。そしてちょうどうまい具合に第二幕以降に、耳で聞くだけでも通常版とは明らかに異なる部分が集中している。第二幕第二場と第三幕の終盤ではなかなか興味深い瞬間があった。タイトル・ロールのチョーフィはやや線の細い声で、第一幕あたりでは少し神経質そうな感じをしたが、そうした声質が第二幕以降はその迫真の演技と相俟ってなかなかよかったのではないかと思う。
いずれにせよ、この演奏の最大のポイントは『椿姫』というオペラに対するカーセンの(最初に原作から『椿姫』という作品に触れたものにとっては納得のいく)興味深い解釈鋭いアプローチが見物なのだが、実際の舞台で見る場合には、ここまで解釈し尽さなくて、もう少し余白の部分がある方がよいのかなとも感じた。そればかりは実際の舞台を見ないことには分からない。
追記 2007-03-07 21:14:03
ジェルモン氏が登場するとき、舞台の背後の壁が二つに割れる。非日常的な空間へのブルジョワ的道徳観による介入にふさわしい演出と感じた。
アルフレードに札束を投げつけられたヴィオレッタが、通常の演出とは異なり、険しい形相で前方を見据えて立ち尽くすのも印象的だった。一人の女として愛した男から、あくまでも娼婦として扱われたことへの怒りと絶望の表現だろう。アルフレードは自分が与えられた無償の愛という価値を、貨幣価値に還元してしまったわけだ。
アルフレードの怒りは、ヴィオレッタが自分を裏切ったと思ったことだけでなく、彼女に養われていた自分自身へ向けた怒りでもあったはずだ。ヴィオレッタがパトロンである男爵の元に去ったことを知り、ヴィオレッタが娼婦であったことを改めて実感する。ヴィオレッタに投げつけた紙幣は、返済という意味だけでなく、その侮辱的な振る舞いによって性的に独占した代価としての意味合いを持つ。
周囲の人々の非難も、あまりに礼を失した振る舞いへの道徳的な非難が第一義的にあるが、それが真っ当な労働による報酬でないところが反感を引き起こしたと見るべきだろうし、父ジェルモン氏の不興もそうした文脈で理解しうる。
第三幕。舞台が暗転し、幕が降りたまま前奏曲が奏でられる。幕が上がると内装工事用の足場が組まれ、壁は白いビニール・シートで覆われ、ひどく殺風景でがらんとした部屋となっている。しかし第一幕と同じ部屋であることは、カーニバルの狂乱に乗じて乱入してきた若者たちによってシートが引き剥がされると、下から第一幕で印象的だった緑の木立の壁紙がところどころ剥された状態で覗くことから判る。家具も非常に粗末なものに変わっていたり、梱包されていたりする。
こうした演出も原作を踏まえたもので、小説では彼女の家財をすべて差し押さえた管財人によって差し向けられた番人の靴音を聞きながら、マルグリット(ヴィオレッタ)が死の床でアルマン(アルフレード)に最後の手紙を書く。この舞台でも彼女が息を引き取るとともに内装業者らしき男たちが作業をはじめる。
その寒々とした部屋で、ひどくやつれたヴィオレッタが床に横たわっていて、それは第一幕でヴィオレッタ自身が予感していた通りの最期であり、付け放したテレヴィが住人の、(少数の例外を除けば)テレビしか自分に言葉を発するものがいない孤独を暗示する。もっとも朝の「7時」ということなので他の解釈もあるのかも知れない。ヴィオレッタの孤独は、彼女が唯一の友人と呼ぶ医師グランヴィルが帰り際にアンニーナに報酬を要求し、受け取る場面でも強調されると同時に、この演出を首尾一貫したものとしている。つまりヴィオレッタの不幸とは、彼女が望むと望まないとにかかわらず、一旦娼婦となってしまったのちは、金銭の授受を介した人間関係しか持てなかったということだ。
アルフレードが現われたとき、二人は剥がれかけた壁紙の前で抱擁する。正面からのライトは壁紙の剥がれたあとに二人の影を映し出す。紅葉した木立の中で抱擁していた第二幕第一場の反復だが、そこで二人が歌うような田舎での平穏な暮らしはもはや幻想でしかないことを示す。第一幕でアルフレードがヴィオレッタに渡したポートレートは、現代の風俗に置き換えたこの舞台では肖像画の代わりを果たし、ヴィオレッタはマノンのようにアルフレードの腕の中で死んでいく。第一幕と第二幕の小道具も第三幕にうまく活かされている。
ここでふと思ったことがある。アルフレードが第一幕でヴィオレッタに手渡した大きく引き伸ばした写真は、実は定職にはついていなかったが、フリーランスのカメラマンとしてヴィオレッタの姿を遠くからパパラッチとして撮りためていたものだとしたら、これもまた原作の中で鋭く批判され、またヴェルディにとっても他人事ではない問題ということになる。原作ではマルグリット(ヴィオレッタ)の死後、やがて競売にかけられる家財の下見会にブルジョワジーの婦人たちが押しかける場面からはじまる。それは虚栄に満ちた退廃的な世界を建前上、嫌悪しつつ、好奇の対象ともする大衆の欲望を描いていることになる。
当時と今とでは、風俗や慣習は大きく変わってしまったが、市民道徳の偽善性と貨幣経済そのものは変わっていない。それらはもともとこのオペラの台本にも内包されており、ヴェルディが「私たちの時代の主題」と見なしていたものだろう。カーセンの演出はそれを具体的に眼に見えるものとしたに過ぎない。デュマ・フィスが自作を戯曲化したときも、風俗を乱すとして長く上演されず、ヴェルディが強く願いながら劇場側や台本作者が忌避したため、果たせなかったを本来の意図を現代において再現するという意味では十分に説得力のあるものと感じた。
それが観客の好悪を激しく分かつことも十分理解できる。ただし、激しい嫌悪や困惑もまた演出家カーセンの意図したところなのだろう。
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演出のことばかりに触れてきたので、最後に演奏についても少しばかり。
第一幕では、オーケストラにやや重さが感じられるように思った。そのせいだろうか、それが演出プランとの関連によるものか、版の違いによるものかは分からないが、前奏曲が終わった直後の湧き立つような感覚が若干スポイルされているようにも感じた。歌手たちも本調子ではないのかと感じる部分もある。
そうした不満も第二幕以降、次第に解消されていく。そしてちょうどうまい具合に第二幕以降に、耳で聞くだけでも通常版とは明らかに異なる部分が集中している。第二幕第二場と第三幕の終盤ではなかなか興味深い瞬間があった。タイトル・ロールのチョーフィはやや線の細い声で、第一幕あたりでは少し神経質そうな感じをしたが、そうした声質が第二幕以降はその迫真の演技と相俟ってなかなかよかったのではないかと思う。
いずれにせよ、この演奏の最大のポイントは『椿姫』というオペラに対するカーセンの(最初に原作から『椿姫』という作品に触れたものにとっては納得のいく)興味深い解釈鋭いアプローチが見物なのだが、実際の舞台で見る場合には、ここまで解釈し尽さなくて、もう少し余白の部分がある方がよいのかなとも感じた。そればかりは実際の舞台を見ないことには分からない。
追記 2007-03-07 21:14:03
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