Mey yeux sont pleins de nuits...

読書、映像・音楽の鑑賞の記録など

是枝裕和『幻の光』

2007-05-04 23:47:35 | 映画
幻の光
(日本・1995・110min)

 監督:是枝裕和
 製作:重延浩
 プロデューサー・企画:合津直枝
 原作:宮本輝
 脚色:荻田芳久
 撮影:中堀正夫
 美術:部谷京子
 編集:大島ともよ
 音楽:チェン・ミンジャン
 
 出演:江角マキコ、内藤剛志、浅野忠信、木内みどり、柄本明、
     赤井英和、市田ひろみ、吉野紗香、寺田農、大杉漣


 映画の前半で主人公の内面に大きな影を落とす二つの事件が描かれる。

 一つは少女時代の祖母の失踪であり、もう一つは夫の自殺である。主人公は見送る人であり、家を出て行く祖母を制止しきれず見送ってしまい、祖母はそのまま帰らなかった。仕事の途中に自転車を置きに帰ってきた夫を通りまで見送った日も夫は帰ってくることはなかった。主人公はこの二人の背中に向かって今も問い続ける。

 「なぜ出て行ったのか」
 「なぜ死んだのか」

 祖母の失踪は死に場所に向かうためのものであり、したがって最初の問いは

 「なぜ死を目指していったのか」

とも置き換えられ、列車の進行方向に向かって一切後ろを振り返らずに歩き続けた夫に関しても同様に置き換えられるだろう。

 だが、死者は永遠に戻ってこない。だから主人公がいくら問いかけても答えを返してくることはない。生者と死者との間に横たわる深く絶対的な断絶ゆえに、この問いは予め答えが封じられた問いであるともいえる。

 そこでこの答えのない問いは、自らに対する問いへと反転する。

 「なぜあのとき引き留めなかったのか」
 「なぜあのときその兆候に気づかなかったのか」

 しかし、この問いも、問いを発する今と「あのとき」との絶対的な距離ゆえに、かりに答えを見出せても、意味のある問いとはならない。ただ自責の念となって主人公の内面を苛むだろう。そこで主人公は祖母の死以来、喪に服しつづける。


 やがて主人公は生まれ育った関西(尼崎)を離れ、奥能登に住む、同じく妻と死に別れた男と再婚する。婚礼のシーンで主人公は祖母の死以来はじめて白を身に纏う。そして、これを契機に主人公は少しずつ黒以外の服を身に纏いはじめる。

 映画はこうして死に絡めとられている主人公の再生に向かっての緩やかな歩みを季節の移り変わりとともに描いていく。主人公の意識の変化は主人公を包み込む光線の加減と身に纏うものとで象徴的に表現される。

 ただし再生への歩みは一進一退を繰り返しながらのもので夫の連れ子と死んだ夫との子をつれての里帰りは亡夫との記憶を辿る旅となる。そして行きつけの喫茶店のマスターから死の直前の亡夫のようすを聞き、夫の死が一旦家の近くまで帰ってきながら、突然何かに憑かれたように反転してなされたものであることを知る。問いは、

 「なぜ突然死に引き寄せられたのか」

というものに置き換えられる。しかも夫が死んだとき生後三ヶ月の息子も大きくなり、自転車を欲しがるようになる。その自転車は緑色の自転車で、かつて自転車を盗まれた亡夫がどこからか自転車を盗んできたとき、主人公は二人でその盗んできた真新しい銀色の自転車に緑色のペンキを塗ったのだった。こうして主人公は前夫の死の記憶に引き戻される。 

 
 そうして空が鉛色に低く垂れこめた初冬のある日、主人公はふと見かけた葬列のあとを、まるで死に招き寄せられるかのように追いかけ、日が沈んだあともずっと海岸でひとり送り火を見つめつづける。だが、今の夫は、何がしかの兆候を感じていたのであろう、ほうぼう探しまわった末に連れ戻しにくる。こうして主人公は生の側に引き戻される。

 このとき、夫はかつて漁師として海に出ていた義父から聞いた幻の光の話をする。幻の光とは漁師たちを死の深淵に引き込む光で、波が引き起こす光の反映だった。そうした光に魅入られる瞬間は誰もにでもあるのではないかと夫はいう。こうして問いは祖母と自分、あるいは亡夫と自分という個別の問題から一般的な次元に引き上げられ、次にそれでも人は生きていかねばならない、という格率へと変わるだろう。(ちなみに、ほとんど同時録音で録ったらしいこの映画の中で、この場面はアフレコで波の音とミキシングしたものと思われる。二人の台詞は引いたショットにも関わらずはっきりと聞き取れる。また、そういえば、夫に死なれた主人公がアパートの部屋で茫然自失の態で座り込んでいるシーンで、壁に盥の水の反映が映る場面が印象的だった。盥は後追い自殺をするのではないかと心配してやってきた母親の手で片付けられ、それとともに壁に映った光の美しい反射も消える。あれもまた幻の光だったのか?)

 この海辺の会話のシーンは、次に夫と子供たちの自転車の練習に切り替わる。夫や二人の子どもの歓声が響くなか、義父は縁側に腰を下ろし、初夏の日差しがまぶしい戸外を眺めているでもなく眺めている。その背後に立つ主人公は暗い室内にあって、逆光ゆえに黒い影でしかない。やがて主人公は義父のいる光の当たる場所に歩いていく。そうして義父の隣にしゃがみ、穏やかな表情で外を眺める。するとカメラは高台からのロング・ショットで明るい陽光の下、青く穏やかな海と新緑の風景とともに豆粒のような父子三人の姿を映し出し、一転してさっきまで主人公がいたであろう二階の部屋を映し出す。机の上には便箋らしきものが置かれ、さっきまで誰かに手紙を書いていたらしいことが判る。

 それは亡き夫に宛てた、生きる意志を示したものだったのだろうか?


 なお、主に三脚に固定されたカメラで撮られた画面は比較的ゆったりとしたカット割で構成されており、光と影のコントラストを活かした画面は静謐な美しさに充ちている。そしてくすんだような画面の中に時折、効果的に鮮やかな色彩が映し出されるのが印象的だった。わけても二人の子供がトンネルを走り抜けていくのを後ろから捉えたショットでの新緑を透かして輝く光の戯れ。
 

2007-05-06 付記

 映画『幻の光』を久しぶりに見直したついでに、宮本輝の原作(新潮文庫『幻の光』)も読んでみた。ちなみにこの作家の作品を読むのはこれがはじめてとなる。

 原作は主人公の一人称による問わず語りの文体で、脚色するにあたって時系列にストーリーを直しながら、いくつかの場面を組み合わせて刈り込んだり、場面を作り変えたり、新たに場面を作ったりしている。そして、そうした場面がとても印象深いものであったりする。
 
 しかも映画は原作の貧困という重要なモティーフをあえて捨象している。その結果、衣服のことも含めて、生と死をめぐる象徴劇としてストーリーを凝縮して、まったく別物になっている印象となる。

 おそらくドキュメンタリー出身の監督にとってはじめての劇場用映画となった本作は、二重の意味での他流試合となっている。一つはドキュメンタリーで余り用いない固定カメラへの固執、もう一つは原作があり、しかも脚本も他人の手によるという点。そうした気負いもあるのだろう、映画『幻の光』ではナレーションを使わずに、原作に描かれた主人公の内面描写をいかに描くかという結構難しい課題に挑んでいるようだ。

 ちなみに原作を収めた『幻の光』を表題とする短編集の中では、個人的な記憶に由来するのだが、最後に収められた「寝台車」という短編がいちばん印象深く感じた。


最新の画像もっと見る

post a comment