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アラン・レネ『世界の全ての記憶』

2007-02-21 22:19:09 | 映画
世界の全ての記憶 TOUTE LA MEMOIRE DU MONDE
(フランス・1956・22min)

監督:アラン・レネ
プロデューサー:ピエール・ブラウンベルジェ
脚本:レモ・フォルラーニ
撮影:ギスラン・クロケ
音楽:モーリス・ジャール

 アラン・レネによるパリにある国立図書館(今でいうところのビブリオテーク・ナショナルの旧館)に関する22分程のドキュメンタリー。それほどたくさんの映画を見たわけではないけれど、映画の中の図書館としては、『ベルリン・天使の詩』と並んでこの映像は印象深いものだ。

 この国立図書館には、16世紀以来、国内の刊行物はすべて献本されている。定期刊行物ももらさず蒐集され、もし欠落があれば手を尽くして補完される。ランボーの処女作もこのアーカイヴに収められた地方紙から発見されたという。蔵書は今世紀に入ると当然のごとく加速度的に量に膨れ上がり、しかも現在では、海外の出版物も集められている。それがこの映画のタイトル『世界の全ての記憶』の由来となっている。

 ただし、そこは確かに「世界の全ての記憶」にアクセスするための公共的なインターフェースとしての空間であることは確かなのだけれど、昨今のコンピュータの端末がいくつも設置された「メディアテーク」など呼ばれるような図書館とは随分と違うイメージで、いわば書物という手紙を通じて古人と対話する空間でもあると感じるのは、書物に対する偏愛ゆえだろうか。「世界の全ての記憶」というと、マラルメ的な書物のことも想起するけれど、それよりもむしろ古代から中世に至る(「記録」としてではなく)「記憶」の道具としての書物観(M・カラザース『記憶術と書物』)がその根底にあるように感じる。

 映像はまず暗い倉庫のような場所の映像からはじまる。かなり古い書物が積まれていて、製本していない仮綴じのものもある。(ナレーションによる説明はないが、ここが有名な発禁図書を収めた地下の書庫なのだろうか?)

 この最初のシーンから一転してカメラは一気に屋根を捉え、図書館の概要と定期刊行物部、地図部、版画部、写本部、古銭部などの各セクションを紹介するナレーションとともに、館内の各所を紹介しながら自在かつ滑らかに室内を動き回り、カメラの動きと交錯するかのように、職務への矜持をにじませた無表情を浮かべる職員たちが縦横に画面を横切る。

 動き回るカメラの切り取る構図のひとつひとつが考え抜かれた「美しい絵」となっていて、膨大な書物を収めた一列に並べると全長100kmにも及ぶという無数の書架の立ち並ぶ威容とともに圧倒される。撮影監督は『夜と霧』にサッシャ・ヴィエルニーとともに参加していたギスラン・クロケだった。

 ひととおり館内を紹介していったカメラは次に、収集のポリシーと一冊の本が書架に並ぶまでの流れを解説するナレーションが続く中、献本された一冊の書物の行方を映し出す。職員たちの堅実な仕事ぶりを紹介しながら、新たに献本された書物が架蔵されたのを見届けたカメラは、古文書の修復作業や様々な稀覯本や貴重な蒐集品を紹介し、また別の書物が書架から取り出され、閲覧室に届くまでを追う。閲覧室の巨大な空間な巧みなカメラ・ワークで捉えられたあと、この「世界の全ての記憶」を収めた場所の旅の終わりを告げる。
 
 職員たちの作業自体は事務的で、システマティックなものでしかないが、映像全体の印象としては、(陳腐な表現なのだけれど)何か夢のように美しい一編の詩という感じがするし、ホルヘ・ルイス・ボルヘスなどという名前も浮かんでくる。こうした印象は建物の中を自在に動き回るカメラのもたらすものであり、この華麗なカメラ・ワークと「記憶」という主題がレネ自身のこのあとに続く作品を否応なく連想させる。あるいは、これは『去年、マリエンバードで』の習作として撮られた映画なのかも知れない。(習作と呼ぶにしては異様なまでの完成度をもつ映像なのだけれど。) 


 附記

 オープニング・クレジットや allcinema ONLINE によれば、出演者としてアニエス・ヴァルダの名前が挙げられているが、特殊セクションの表示板の前に立っていたサクラの女性がそうだったのだろうか?ほかにオープニング・クレジットにはジャン・ケイヨールやクリス・マルケルらの名前も見られた。
 そしてこの映画でも、いつもながら音楽が映像と見事にシンクロしているさまが印象的だった





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