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諏訪敦彦 『H Story』

2007-08-19 23:33:32 | 映画

H Story
 (日本・2001・111min)

 監督:諏訪敦彦
 プロデューサー:仙頭武則
 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
 美術:林千奈
 編集:諏訪敦彦、大重裕二
 音楽:鈴木治行
 照明:和田雄二
 録音:菊池信之

 出演:ベアトリス・ダル、町田康、馬野裕朗、諏訪敦彦


 映画監督・諏訪は現代の広島で、レネの『二十四時間の情事』をマルグリット・デュラスの脚本をまったくそのままに、「H Story」というタイトルでリメイクしようとする。しかしながらキャストはそうした諏訪の意図が理解できない。諏訪自身もデュラスのテクストをそのままリメイクする意図を問い返され、困惑する。とりわけ主演女優ベアトリス・ダルはデュラスのテクストを自らの肉声として発話できないことに苦痛を感じ、やがてさまざまなトラブルを経て撮影は中止となる。

 『H Story』はこの頓挫した映画「H Story」についてのドキュメンタリーという体裁を装った架空のドキュメンタリーだ。なぜならあらかじめ計算された構図がそれを物語る。デュラスの脚本を一言一句再現するといっておきながら、タイトルは「Hiroshima, Mon Amour」ではなく、最初から「H Story」となっている。そして劇中映画「H Story」の撮影や撮影現場を訪れた作家・町田と監督との対談でも画面に一瞬現れたカチンコが撮影中断後のシーンでも現れる。すなわち、これは完成しえなかったあるリメイク映画をめぐる物語として作られたメタ映画なのだった。

 さて劇中映画「H Story」の撮影が滞り、中断するあたりから映画『H Story』の物語は大きく動きはじめる。作家・町田は女優・ダルを伴って原子爆弾投下に関わる作品を収めた美術館を訪れる。しかし所蔵作品はダルの関心を惹かない。それは劇中映画「H Story」が頓挫した理由、つまり原子爆弾投下と現在を隔てるもの、そして『二十四時間の情事』と頓挫した「H Story」を隔てるものを指し示しているのだろう。

 にもかかわらず撮影の中止が決まったあと、まさにレネの映画のように、不意に『二十四時間の情事』という過去が現在に浸潤しはじめ、ダルと町田の二人が『二十四時間の情事』の男女をなぞりながら、もうひとつの結末を演じはじめる。町田が『二十四時間の情事』では映画の終わり近く、ヒロインに英語で話しかける男の役としてキャスティングされていたことも興味深い。

 ダルと町田は、かつて『二十四時間の情事』の男女が歩いた商店街を歩く。ただし、それは単純な反復ではなく、微妙な差異が認められる。『二十四時間の情事』の男女はフランス語で意思の疎通をはかりながら、最終的に理解不能なものを確認しあった。ここではほぼフランス語しか話さぬダルと怪しげな英語を話す町田の間に言語レベルでの意思の疎通はない。ただし失意のうちにあるダルの傍らにあって町田は彼女を和ませることはできる。

 そしてホテルへは戻らずひたすら歩き続けた二人が歩き疲れて朝を迎えた場所は原爆ドームの中。雨上がりのしっとりとした空気感と深く艶やかな木々の緑。その中を緩やかに動くダルの服の鮮やかな赤と黒。

 思えば『二十四時間の情事』の広島でのパートの主要部分の撮影シーンは最後の部分を除けば、劇中映画「H Story」の中でほとんど演じられていて、しかも残りの部分は変奏を加えてダルと町田によって生きられた。人は他者の苦悩や孤独を癒すことはできないが、それに寄り添うことはできる。そのような町田の存在が『二十四時間の情事』とは異なる
別の解答をもたらし、『二十四時間の情事』の文字通りリメイクとなる。
 
 ここでのリメイクについて、たとえば監督はドゥルーズ的な差異と反復の思考を映画として実践しようとしたのだろうか?最初に示される同一的な要素の繰り返しとしての反復(物質的反復)はドゥルーズによれば思考不能であり、また表象=再現前化不能なものとされる。そのような反復=劇中映画「H Story」の否定。しかしながら、『H Story』はその先に新しいもの、差異が実際に生み出される条件としての反復として自らを呈示しているということか?いずれにせよ、この映画はリメイクするということの意味をラディカルに問いかけている、と感じた。

 もう一度、ゆっくりと時間をかけて見直したい映画。

 




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