ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

富樫如来に導かれたジャズジャイアンツの慈愛溢れる「マイ・ワンダフル・ライフ」

2009年10月29日 | 音楽
「マイ・ワンダフル・ライフ-富樫雅彦バラード・コレクション」は、2年前に亡くなった天才ドラマー富樫雅彦の作曲したバラードを集め、佐藤允彦、渡辺貞夫、峰厚介、日野皓正、山下洋輔ら富樫にゆかりあるジャズメンがソロやデュオで競演した日本のジャズジャイアンツによる追悼(競演が正しいかも)アルバムだ。これだけのメンバーを引き寄せてしまうところが富樫のすごさといえばすごさなのだが、このアルバムは不在であることの存在感が美しいとしかいいようのない叙情を奏でている。

 タワレコで試聴し、1曲目ナベサダが演奏する標題曲「マイ・ワンダフル・ライフ」を聴きながら目頭が熱くなってきてしまった。1曲目でこのアルバムの意図が分かる。富樫さんは、類稀なバラードの作曲者であったのだ。しかも、ここに集結した日本のジャズジャイアンツが不在の富樫さんと一緒にインプロヴィゼーションしていることの喜びが音になって溢れ出ている。亡くなってすぐの追悼アルバムではこうはいかなかった。確かな不在を確認しながら、しかし傍らには見えない富樫がいる。5人のプレイヤーは富樫の音を聴きながら演奏しているのだ。だからこんなにも美しく慈しみのある演奏ができるのだろう。ボーナストラックとして収録されている山下による標題曲のピアノ・ソロもやさしい。皆が富樫如来に導かれてプレイしているとしか思えないそんなアルバムなのだった。
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あまり読んでほしくないまずいラーメン屋のこと

2009年10月28日 | アフター・アワーズ
 ラーメンという食べ物は、ピンキリあっても、そうひどいものに出会ったことはない。インスタントだって結構いける。マルタイラーメンなど絶品だ。にもかかわらず、世の中にこれほどまずいラーメンがあったとは。

 神保町の白山通りから一本入った道の和風な構えの店だった。午後3時半、遅い昼食をとるためさっさと食べられるラーメンをと思い入ったのだ。つけめんがおすすめらしいが、普通のラーメンに味玉をトッピングして頼んだ。10分ほど待っただろうか(これは長い)。底が細く深い丼に、太い縮れ麺、スープは魚介と豚骨の合わせ、チャーシュー2枚、メンマとねぎのきざみ、海苔。スープは化学調味料を一切使わず数種類をブレンドしたかつお出汁が特徴らしい。だが、一口すすると熱くない。それに何か、煮詰めて濃縮したかつお出汁だけをすすっている感じで後味がよくない。味がぼけていてパンチがないのだ。スープがぬるいせいかチャーシューも玉子も冷たくて、味玉をがぶりとやると、冷蔵庫の臭いがついた独特の味がする。おかしいな、だんだんうまくなるのだろうかと食べ進め、麺と具は食べたのだが、やっぱりまずい。結局スープはもうすする気がなくなったので、残して店を出た。口の中に、生臭いスープの後味が残って気分が悪かった。その夜お腹を下した。きっとあのラーメンのせいだと思っている。店のカウンターはほぼ一杯。つけ麺を食べる人が多かったが、皆ラーメンのまずさをしっていたからだろうか。でも、きっとこれだけラーメンがまずければ、つけ麺だってうまいはずがない。

 どこの街でも次々と新しいラーメン店ができ、趣向もさまざまだが、今回の店、外観は悪くないのだが、入口のお品書きの字がへたくそだった。店内の布のオブジェの額が曲がっていた。コンセプトが徹底していないことが味にも現れていたわけだ。
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あまり読んでほしくないぼやき

2009年10月23日 | アフター・アワーズ
 毎年この時期になるとビジネス雑誌が大学特集を掲載する。東洋経済は恒例の「本当に強い大学」。大学の格付け特集だ。大学関係者はこういう企画が気になってランキングがよければ、結構PRのネタに使ったりしている。この特集でも取り上げられていたけれど、文部科学省が推進している留学生30万人計画は、民主党政権になってどうなるのだろうか。高等教育に関する政策なり考え方は、まだ表明されていない。

 そもそもこれは2020年までに、現在約12万人の外国人留学生を30万人に増やすというプランだ。同じG8のドイツやフランスの外国人留学生数が約30万人(世界の留学生市場の5%だとか)なので同等のレベルにしようということで設定した目標らしい。実は、この計画には民主党の谷岡参議院議員から異議が唱えられていたと記憶している。趣旨は留学生を増やすことは、人員削減を余儀なくされている大学の教職員の負担をさらに増大させ、ひいては日本人学生へのサービス低下につながるので、闇雲に留学生を増やすのはいかがなものかということだったと思う。

 留学生30万人に関連して文部科学省は、その拠点づくりの支援事業として「グローバル30」大学を認定している。第1期として13大学が採択されたが、例えば私立大学は関東では早慶明、上智、関西が同立の計6校が選ばれただけ。もともと申請した私大は7校しかない。どこの大学も国際化を標榜しているが、いざ留学生の受け入れとなると、実はみな余り積極的ではないことが露呈した。そもそもグローバル30は、国際競争力のある拠点大学づくりが目標なので、過去3年間の修士・博士の学位授与平均件数とか科研費の平均採択件数とか採択基準のハードルが高い。支援を受けた大学は2020年までに在籍学生数の20%を留学生にするのだとか。例えば学生数6万人のN大だと、1万2000人にするということ。これは現在の10倍に増やさなければならない。そんなわけで申請できなかった大学も多かったのではないか。留学生を30万人に増やすとなると、宿泊施設、奨学金、英語で専門教育ができる教員、生活をサポートできる職員など、国際化のためのインフラ整備が不可欠なのだが、果たしてどれだけの大学、とりわけ私立大学が、その整備にカネや人材を投入できるだろうか。

 それより何より、日本の大学は外国人留学生に来てほしいと思っているのだろうか。よく大学関係者から建前として聞かれるのは、少子化で国内の受験生が減少した分は、留学生で補填しようという話だが、日本人学生に支持されない大学が留学生など教育できようか。それを分かっているから、本気で国際化には取り組まない大学が多いのだと思う。日本人学生だってまともに対応できないのだからと嘆く関係者もいる。

 文部科学省は、30大学に採択された大学には年間2~4億円を5年間支援するという。仮に採択されて5年間支援を受けても、その後維持・継続できるか心配というのが多くの大学の本音だろう。こうした文科省の支援事業で施設を建てたはいいが、稼動させるだけで膨大な経費がかかるので、支援期間が過ぎればもはやお荷物になった施設を抱えて困っているという大学は少なくない。

 その一方で、前述の民主党議員ではないが、留学生より日本人学生をもっと支援すべきという妙なナショナリズムの声も多い。留学生は、学費も安く、単位取得も楽で日本人学生よりはるかに優遇されている。反日教育をしている国の留学生をこれ以上増やすな、などの声は意外と多いようだ。今後さらに外国人流学生が増えていけば、日本人との溝はもっと深まることが懸念される。

 日本の大学や日本が外国人にとって魅力ある存在であれば、自ずと日本に留学したいという外国人は増えるだろう。そのための環境や支援体制は整備すべきだ。入国管理法や入学に際しての日本人保証人の問題など、改善できる問題は改善し、留学しやすい環境をつくればいい。とくに自治体や地域の受け入れ態勢や公務員、住民の意識が変わることは不可欠だ。その上で自然と増えていくなら摩擦や衝突は少なかろう。だが、現在の日本人のメンタリティや社会環境を考慮せず、拡大路線をとっていけば、溝を深めるだけだろう。すなわち外国人排斥に必ずつながっていく。

 誰がどんな利権を期待してこのプランを推進しているのかは分からないが、グローバル30に限らず、文部科学省のニンジンぶら下げ政策に、とりわけ私立大学が一喜一憂しているのはいささか滑稽だ。採択事業だけでなく、やれIT技術者が少ないから情報系学部だ、観光立国をめざすから観光系の学部学科だ、パイロットが退職するからパイロット養成だと、省庁や業界が主導し、これにに迎合して進められる学部学科新設などなど。ニーズがあるからが理由なのかもしれないが、その結果数年後に閑古鳥がないている学部はいっぱいある。建学の理念はどうした。官学に対する私学の心意気はどこにいったのか。国の支援には頼らない、独自にカネを集めますという気骨をみせてほしいものだ。
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速水御舟展を山種美術館まで観にいく

2009年10月19日 | 絵画
 先週、広尾に新たにオープンした山種美術館に行った。オープンを記念した「速水御舟展」を見るためだ。

 恵比寿から駒沢通りを歩いて12,13分だろうか。PAPAS本社のファサードに立つ巨大なダビデ像の巨大なポコチンに見下ろされながらしばし坂を登ると、角の八百屋に「山種美術館はこの先」と段ボールの紙片にマジックで書いた案内看板がぶら下がっている。よっぽど、聞かれるのだ。日本画を中心とした美術館だから客層の中心は中高年。坂を登って、まだなのかという思いで、この八百屋に聞くのだろう。実際、この八百屋のほぼ隣に新しいモダンな佇まいの山種美術館はあった。

 まだ第1作さえ完成していない身で日本画を描いているなどとはいえないのだが、それでも西洋画を見る視点とは異なった日本画の技法に対する興味から、できるだけ巨匠たちの作品に触れたいと思う。だから御舟の絵は新鮮だった。天才と言われ、40歳で亡くなった御舟は、変化しながらもその年代年代で完璧な技法と表現力を発揮しているが、まだ発展途上だった。「一度登った山をおりる勇気」といったそうだが、それだけにもっと生きていれば、日本画の新しい可能性をどのような開拓しただろうかと思わないわけにはいかない。

 琳派風の初期作品、未完の婦女群像もすばらしいが、1920年代のヨーロッパを旅した折に描かれたイタリアの路地裏のカフェだかトラットリアだかの椅子に腰掛けた女性がいる午後(と思われる)の風景を坂道の上から縦の構図で描いたスケッチの、速筆のタッチと着彩された色のすばらしさに驚嘆したのだった。ものすごい速さでその風景を切り取ったのだろう。だが、まるで見るものをイタリアの小都市の路地裏に連れて行ってしまい、そこに吹く風やら漂う匂いまで感じさせてしまうのだった。「京の舞妓」の絵が酷評されて以来、敬遠していた人物画に挑戦するために描いたヌードデッサンの力強さ。炎の中を舞う蛾を描いた「炎舞」の黒、桃の花の蕾の繊細な描き方。墨と白緑で描いた桔梗など、大作から小品まですべてがすばらしい。速水御舟おそるべし。
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何も起きないアクション映画「リミッツ・オブ・コントロール」

2009年10月16日 | 映画
 イザック・ド・バンコレ演じるほとんどしゃべらない男(lone man)は、決まったようにオープンカフェ(列車のカフェもある)で「ツー・エスプレッソ」を頼むと、やがて「スペイン語は話せるか」と、コードネームをもった男や女がやってきてボクサーが描かれたパッケージのマッチ箱を置き、しばし芸術や宇宙や映画の話をして帰っていく。マッチ箱から紙片を取り出して開くとなにやら暗号らしき文字が書かれており、男はそれを口に入れてエスプレッソで流し込み、次の場所へ移動する。ジム・ジャームッシュ監督の新作「リミッツ・オブ・コントロール」は、基本的にはこのシークエンスが繰り返されるだけの映画だ。そしてジャームッシュらしく主人公はひたすら歩く。

こう描くといかにも退屈そうだが、実際、こんな退屈な映画はないという批評もあるようだが、前作「ブロークン・フラワーズ」のゆるいコメディを期待したむきは、みごと裏切られた気持ちだろう。実際、僕自身も、何かが起きるだろうという期待をもって、さて次の展開はどうなるだろうと見ていると、意外な結末のラスト以外、ほとんど何も起きない。特別なアクションなどないのだが、それでも繰り返される変奏の果てに、「no limits, no control」の文字が画面に現れる、もうそのときにはみごとにこの映画にはまってしまっているのだった。そして、見終わるともう一度見たいという強い欲求にかられるのだ。幕が開いて15分くらいすると事件が起き、その後短いショットで連続的にアクションが繰り返され、見るものを否応なく結末へとせきたてるハリウッド映画といわれているものは、1度見れば2度目はいらないが、この映画は、無限にスクリーンへの欲望を誘うまさに「ノー・リミッツ、ノー・コントロール」な映画なのだ。

男が、マドリッドのすばらしい建築のホテルに着くと、裸の女がベッドに横たわっており、「私のお尻きれい」とたずねる。それはまるで「軽蔑」のバルドーのようなのだが、コードネーム・ヌードを演じるパス・デ・ラ・ウエルタという女優さんがなかなかよい。左のおっぱいだけなぜ下がっているのかがよくわからないけれど。それにしても、コードネーム・ブロンドのティルダ・スイントン、コードネーム・モレキュールの工藤夕貴、この映画に出てくる女優はみんなすばらしい。

映画館を出ると、僕の歩き方は、確実にコードネーム・孤独な男のバンコレになっているのだった。
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青くたっていいじゃないか。ひさびさのシミタツ節「青に候」

2009年10月16日 | 
 「青に候」(志水辰夫・著/新潮文庫)、志水辰夫初の時代小説が文庫になったので、早速読んだ。時代小説ならもしやあの「裂けて海峡」「背いて故郷」の頃の興奮が蘇る、ハードボイルドな時代小説が読めるのではないかと。一読、志水ファンなら誰もが帰ってきた「シミタツ節」と賛辞を送りたくなる。そんな小説だ。そして、おそらく時代小説の先達としての藤沢周平、とりわけ「蝉しぐれ」を意識したのではないかと思った。あえてシミタツ版「蝉しぐれ」といってしまいたい。

 お家騒動、藩主の側室となった密かに恋心を抱いた幼馴染との脱出劇、藩の中堅として主人公を助ける無二の親友、一目置かれる剣の腕前など、物語のポイントとなるモチーフはよく似ている。だが、武家のしがらみやお家の事情の中で正義を貫きながら格闘する武士の物語にしてしまわないところがミソ。まず、現代小説の視点で「蝉しぐれ」を解体し、それを幕末に置き換えて再生させた、志水辰夫のハードボイルドなのだ。スタンダードをモーダルに解体して新しいクールな叙情を表現したマイルス・デイヴィスに近いといえばいいか。主人公、神山佐平の青さは、どこか自分の居場所はここではないと自分探しをしている若者を思わせるが、組織の事情に従わねばならぬ心情を理解しながらも、孤立を覚悟でそれに背を向ける清さ、潔さがある。しかも、それが最後に一人の女性によって救われるのが、この小説の心地よさだ。そこで一句。(花の時期はすぎたけれど、本を読んだのが9月なので)

 蒼茫の海屹立す曼珠沙華
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