ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

何も起きないアクション映画「リミッツ・オブ・コントロール」

2009年10月16日 | 映画
 イザック・ド・バンコレ演じるほとんどしゃべらない男(lone man)は、決まったようにオープンカフェ(列車のカフェもある)で「ツー・エスプレッソ」を頼むと、やがて「スペイン語は話せるか」と、コードネームをもった男や女がやってきてボクサーが描かれたパッケージのマッチ箱を置き、しばし芸術や宇宙や映画の話をして帰っていく。マッチ箱から紙片を取り出して開くとなにやら暗号らしき文字が書かれており、男はそれを口に入れてエスプレッソで流し込み、次の場所へ移動する。ジム・ジャームッシュ監督の新作「リミッツ・オブ・コントロール」は、基本的にはこのシークエンスが繰り返されるだけの映画だ。そしてジャームッシュらしく主人公はひたすら歩く。

こう描くといかにも退屈そうだが、実際、こんな退屈な映画はないという批評もあるようだが、前作「ブロークン・フラワーズ」のゆるいコメディを期待したむきは、みごと裏切られた気持ちだろう。実際、僕自身も、何かが起きるだろうという期待をもって、さて次の展開はどうなるだろうと見ていると、意外な結末のラスト以外、ほとんど何も起きない。特別なアクションなどないのだが、それでも繰り返される変奏の果てに、「no limits, no control」の文字が画面に現れる、もうそのときにはみごとにこの映画にはまってしまっているのだった。そして、見終わるともう一度見たいという強い欲求にかられるのだ。幕が開いて15分くらいすると事件が起き、その後短いショットで連続的にアクションが繰り返され、見るものを否応なく結末へとせきたてるハリウッド映画といわれているものは、1度見れば2度目はいらないが、この映画は、無限にスクリーンへの欲望を誘うまさに「ノー・リミッツ、ノー・コントロール」な映画なのだ。

男が、マドリッドのすばらしい建築のホテルに着くと、裸の女がベッドに横たわっており、「私のお尻きれい」とたずねる。それはまるで「軽蔑」のバルドーのようなのだが、コードネーム・ヌードを演じるパス・デ・ラ・ウエルタという女優さんがなかなかよい。左のおっぱいだけなぜ下がっているのかがよくわからないけれど。それにしても、コードネーム・ブロンドのティルダ・スイントン、コードネーム・モレキュールの工藤夕貴、この映画に出てくる女優はみんなすばらしい。

映画館を出ると、僕の歩き方は、確実にコードネーム・孤独な男のバンコレになっているのだった。
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青くたっていいじゃないか。ひさびさのシミタツ節「青に候」

2009年10月16日 | 
 「青に候」(志水辰夫・著/新潮文庫)、志水辰夫初の時代小説が文庫になったので、早速読んだ。時代小説ならもしやあの「裂けて海峡」「背いて故郷」の頃の興奮が蘇る、ハードボイルドな時代小説が読めるのではないかと。一読、志水ファンなら誰もが帰ってきた「シミタツ節」と賛辞を送りたくなる。そんな小説だ。そして、おそらく時代小説の先達としての藤沢周平、とりわけ「蝉しぐれ」を意識したのではないかと思った。あえてシミタツ版「蝉しぐれ」といってしまいたい。

 お家騒動、藩主の側室となった密かに恋心を抱いた幼馴染との脱出劇、藩の中堅として主人公を助ける無二の親友、一目置かれる剣の腕前など、物語のポイントとなるモチーフはよく似ている。だが、武家のしがらみやお家の事情の中で正義を貫きながら格闘する武士の物語にしてしまわないところがミソ。まず、現代小説の視点で「蝉しぐれ」を解体し、それを幕末に置き換えて再生させた、志水辰夫のハードボイルドなのだ。スタンダードをモーダルに解体して新しいクールな叙情を表現したマイルス・デイヴィスに近いといえばいいか。主人公、神山佐平の青さは、どこか自分の居場所はここではないと自分探しをしている若者を思わせるが、組織の事情に従わねばならぬ心情を理解しながらも、孤立を覚悟でそれに背を向ける清さ、潔さがある。しかも、それが最後に一人の女性によって救われるのが、この小説の心地よさだ。そこで一句。(花の時期はすぎたけれど、本を読んだのが9月なので)

 蒼茫の海屹立す曼珠沙華
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